自然災害の歴史から防災を学ぶ、「災害遺構プロジェクト」。
あなたの地域で、過去にどんな災害が起きたのか?
全国の災害遺構をめぐり、先人たちが遺したメッセージや災害の爪痕から、地理歴史科の教員免許をもつ、フジテレビの上垣皓太朗アナウンサーが災害の歴史を解説。
また、防災士の視点から、防災に役立つ知識を紹介します。
同期アナウンサーとBOSAI発信
みなさん、こんにちは。上垣皓太朗です。
これまで行ってきた災害や防災に関わる発信を引き継ぎ、さらに取り組む決意とともに、2025年12月19日(金)よりアルファベットで「BOSAI」という新たなプロジェクトを始めました。
私の「災害遺構探訪記」も、このプロジェクトの一環としてこれからも、過去の災害からいまの防災につながる情報を発信していきます!
記念すべき「BOSAI」の最初の投稿は、スペシャルなゲストとともにお届けします!
2024年入社の同期で、入社前からの友人でもある、関西テレビの秦 令欧奈(はだ れおな)アナウンサーです。系列局のアナウンサー同士として、日々刺激を受ける関係。
関西テレビの午後の情報番組『旬感LIVE とれたてっ!』にも、中継などで出演しています。
今回は、昭和南海地震の発生日、12月21日にあわせ南海トラフ地震にまつわる石碑を紹介したいと思います。
大阪の街にある石碑ということで、関西テレビの秦アナとともにお届けします。
場所:大阪府大阪市浪速区幸町3丁目
災害名:安政東海地震 (1854年12月23日) ※現在の暦で11月4日
安政南海地震 (1854年12月24日) ※現在の暦で11月5日
大阪の街で出会った“学び多き石碑”
私が大阪の石碑を訪れたのは、大阪・関西万博の取材帰りでした。
とても特徴的な石碑だったので、秦アナに話をすると、「ぜひ見てみたい」と、すぐに現地へ足を運んでくれました。
石碑の場所は、京セラドーム大阪のすぐ近く。
通りを行き交う車、マンションや飲食店・・・そんな街中に、その石碑は佇んでいます。
現在の場所は当初から移転していますが、一帯が「この場所に津波が?」と疑ってしまうほどの
市街地であることに変わりはありません。
実はここ、江戸時代後期の南海トラフ地震で津波が川を逆流し、この地域まで押し寄せた地域なんです。
「安政元年十一月五日、刻ニ丑、大地震起る。津浪来襲し、両川口より逆流す。」
1854年の安政南海地震の際、津波が押し寄せ、道頓堀川や木津川を逆流したという内容です。
さらに、最初の地震のあと、「地震が起きても水の上なら安心だ」と船に乗って避難した人たちがいたところへ、次の地震による津波が押し寄せ、多くの人が犠牲になったことも記されています。
秦アナ:
私も、この場所に南海トラフ地震を伝える石碑があることに驚きましたし、その内容にも衝撃を受けました。
この時代は、「地震のあとに津波が来る」という認識がなかった、むしろ、水の上に逃げたほうが安心安全だと思われていたなんて・・・。
今は、地震が来たら津波が来る可能性がある、ということを多くの人が知っています。
その環境が、いかに恵まれているかを改めて感じました。
上垣アナ:
いまでは当たり前の常識も、先人が蓄積してきた知恵ですよね。
私が特に気になったのは、1854年の安政南海地震よりさらに100年以上前、1707年の宝永地震の際にも、船で避難した人が津波に巻き込まれ、多くの犠牲が出たと伝え聞いている、と記されていることです。
秦アナ:
私もその点はとても印象に残りました。
上垣アナ:
この石碑の文章を書いた人は、
どんな人でどんな思いだったんだろうって。
悔しい――
「悔しい」とは書かれていないけれど、被害を防げなかった悔しさが、伝わってくる。
だからこそ次の世代へ、必ず次の地震が来るので、
その時は、海の上に逃げてはいけない――とか、具体的に刻まれていると感じました。
