浅野ゆう子さんが“芸能界の母”との思い出を明かし、中村梅雀さんはベーシストとしてスタジオで生演奏しました。また、2人は街の人々からの質問にも答えました。

ゲストが自身の“激推し”しているものを紹介する『ノンストップ!』(フジテレビ)月曜恒例のコーナー。9月8日の放送に、浅野ゆう子さんと、中村梅雀さんが登場しました。
2人は、新国立劇場で上演される朗読劇「『たとへば君』四十年の恋歌」(2025年9月17日~20日)に出演します。
浅野ゆう子 “芸能界の母”野際陽子さんとの出会い「宝物です」
1974年に13歳で歌手デビューした浅野さん。
デビュー当時のキャッチフレーズは「ジャンプするカモシカ」だったそうで、「事務所とレコード会社の方で決めていただいて。その当時は私自身、何にも考えていなかったですね」と笑いました。
その後、浅野さんは歌手だけにとどまらず俳優としても大活躍。浅野温子さんとW主演を務めたトレンディドラマ『抱きしめたい!』(1988年/フジテレビ)で、“W浅野”ブームを巻き起こしました。
ドラマ内で描かれた“W浅野”のファッションやライフスタイルが当時の若い女性の憧れの的に。
浅野さんは、「当時、撮影スタジオが渋谷にあったんです。そこに通っていると、『後姿が浅野温子か、浅野ゆう子か...!?』みたいな。皆さんがロングヘアにしていて恰好をマネしていました」と、振り返りました。
この作品で浅野さんは、“芸能界の母”と慕う野際陽子さんとの出会いが。

野際さんから言われた“今でも大切にしている言葉”があるそうで、それが「あなたは一芸に秀でている人」。
浅野さんは、40歳を過ぎた頃に、役者を続けていけるか悩んだ時期があり「野際さんにとても可愛がっていただいていたので『どう生きていけばいいんでしょうね』と、ご相談をさせていただいたら、この言葉をおっしゃっていただいて」と述懐。
続けて、「根拠はなかったのですが、ものすごく自信につながり『そうか...続けていけばいいんだ』という気持ちになれました」と微笑みました。
また、野際さんについて「今だから言えますが、最後の最後まで病室でご一緒させていただきました。この芸能界でこんなにステキな方と出会えて、ご一緒させていただけたのは私にとって宝物です」と、しみじみと語りました。
中村梅雀 肩書は俳優だけでなく...?スタジオ生演奏に拍手喝采

一方の梅雀さんは、歌舞伎の家系に生まれ、9歳の時に初舞台を踏んだといいます。
「5歳のころから習い事をさせられまして、子どもながら『当然、舞台に立つ』と考えていました。何よりも祖父・中村翫右衛門(かんえもん)が大好きだったんです。なので、自分もおじいちゃんと同じ舞台に行くんだろうと思っていました」と回想。
そんな梅雀さんは高校生のときに、歌舞伎の家柄への葛藤が生まれたのだそう。「中学の時から音楽に夢中になっていき、母親がピアニストだったこともあり、その影響からも音楽の道に進みたくなったんです。『なんで好きな音楽ができないんだ。なんでこんな家に生まれたんだ』と。どんどん自分の道が狭められていく感覚がありました」と明かしました。
梅雀さんは、歌舞伎だけでなくドラマや映画でも多彩な役柄を演じる名優ですが、学生時代からの音楽への思いが成就し、現在ではプロのベーシストとしても活動。
今年6月には、ジャズクラブの名門「ブルーノート東京」で単独ライブを開催。井ノ原快彦さん、戸田恵子さんとセッションするなど腕前は折り紙付きです。

ベース歴57年の梅雀さんは、これまで購入したベースが74本とかなりの数を所有してきたそうで、スタジオには梅雀さんの“推しベース”が登場。

ゼマイティス製の特注で、梅雀さんの名前を冠したシグネイチャーモデル。ボディには貝殻が488枚もあしらわれており、すべて手作りで製作期間は1年かかったと言います。

梅雀さんは番組のためにオリジナル楽曲を作曲し生演奏しました。
浅野さんは、「ステキでした!お顔が芝居の時と違ってミュージシャンの顔になっていました」と驚き、拍手が起こりました。
共演から“推し”に!?宇都宮まで追っかけてしまうほど好きな“吹奏楽部”

続けて、浅野さんの“推し”として、福岡県にある精華女子高等学校「吹奏楽部」が紹介されました。
昨年、舞台でこの吹奏楽部と共演したという浅野さんは、「彼女たちが、舞台の音楽を全編演奏したんですよ。本当にかわいくて、一生懸命で、圧巻の演奏でした」と説明。
それから“推し”になってしまったそうで、「彼女たちを追っかけて、宇都宮に応援に行ったり、学園祭にも伺いました」と微笑みました。
また、「もともと甲子園の応援席にいる吹奏楽部の演奏が好きで、よく聴いていたのです。今では彼女たちの演奏を毎日聴かせていただいています」と語りました。