<宮﨑あおい インタビュー>

※9月11日(土)に公開した記事を再掲載したものです。

――今回、ご自身37回目(※)となる『ザ・ノンフィクション』での“語り”を終えていかがでしたか?

今までのナレーションとは違いました。これまでは、客観的に…でも心はそこに映っている方に寄り添うような気持ちで読んでいましたが、今回は、読んでいる途中で、自分がマエダさんのお友だちのひとりになったような気がして…。今まで味わったことのない感情の流れがある中で読んでいた感じがしました。

(9月19日放送の)後編の最後、マエダさんのSNSを読むところでは、背筋を伸ばして両手は膝の上に置いて“ピーン”としたような感覚にもなりました。

※37回目は、同作品の前編、後編で38回目となる。

――「ダメ人間」を自称するマエダさんは、どんな人に映りましたか?

マエダさんの人生を知っているわけではないので、わからないことがたくさんありますが、周りに集まっている方たちが、いつも楽しそうで、うれしそうで。そんな人たちに囲まれているマエダさんは、幸せな人なんだろうと思いました。

沖縄まで行ったけれど、海に入れなくなってしまったときに、「水着の女性が見られない」とすごく悔しがっているのをみて、なんだかチャーミングだなって(笑)。

――友人たちは、余命宣告をされているマエダさんにも常に普通に接し、一緒に旅行をしたり、あちこちで食事をしたりと、楽しそうでした。

みんなが悪い意味ではなく中学生みたいで(笑)。男の人って、きっといくつになっても、こういうところが多少なりともあって、そこがすごく残っている人たちなのかな、と思いました。

ただ、自分の立場で考えたときに、友だちが余命宣告をされたのを、あんな風に笑いに変えながら付き合って行くというのは…。

お友だちのガル憎さんが、ご自身のマエダさんへの接し方が合っているかどうかわからない、というようなことをおっしゃっていて、本当にそうだろうと思いました。それは、もしかしたらずっと思い続けることかもしれないですし、そうやって、お友だちみんなが特別なものをマエダさんと一緒に背負っているように感じました。

――最期の日までやりたいことをやり、食べたいものを食べる、というのがマエダさん流の“終活”ですが、どう感じましたか?

最期の日まで楽しく笑顔で過ごしたいし、おいしいものを食べたいし、行きたいところに行きたいというのは、きっと誰しもが望むことだと思います。でも、それができるかできないかはいろいろな状況があるから、叶わないこともありますよね。

それでも、望みを叶えようとして集まってくれる人たちが周りにいるということは、マエダさんの宝だと思いますし、それはとても幸せなことだなぁ、と感じました。

――母一人、子一人の母子関係はどのように映りましたか?

子どもが40代になったとしても、母にとっては永遠に子どものままといいますか、ずっと子どもであることに変わりはないんですよね。そんな子どもが先立ってしまうかもしれないというのは、どれだけ苦しいことか…。お母さんの気持ちになると、すごくつらいものがありました。

――以前、番組の魅力を「人間の良いところもかっこわるいところも、全部さらけ出されている」と話していましたが、今回はいかがでしたか?

毎回、自分なりに責任を背負ってナレーションをやらせていただいているつもりですが、今回は、少し違う重さがありました。

先日放送になった高木ゑみさんの回(『ザ・ノンフィクション「笑顔で生きよう~お母さんと僕の約束」』)を見ていて、すごく元気な方でしたし、ずっと笑顔で(身なりも)とってもきれいにされていたので、病気を克服して元気になられたんだろうと思っていたら、亡くなってしまって。涙が止まりませんでした。

性別が同じで、お子さんがいらっしゃることもあって、すごく考えさせられました。今回もそうですが、人の最期のときというのがどういうものなのか…。

ドキュメンタリーでしか、なかなかこんな気持ちにはなりません。この番組を見ているときは、全部が“自分ごと”になってくるので、本当にいろんなことを考えさせられます。

今回の放送を、マエダさんのお友だちは、いつもみたいにみんなで集まってお酒を飲みながら、笑ったり泣いたりしながら見るのかな、と思うと、それはとても素敵な時間になるんだろうな、なんて想像しました。

<“語り”の一部をご紹介!>