梅沢富美男さん主演、土ドラ『浅草ラスボスおばあちゃん』は、日向松子(梅沢)が、失敗したり、空回りしたりしながらも、体当たりでキュートにハートフルに問題を解決。松子自身も、老後の孤独や人生の意味に向き合いながら少しずつ成長していく、人情味あふれる痛快リスタート物語!

<試写室>『浅草ラスボスおばあちゃん』第7話

前回まで、この『浅草ラスボスおばあちゃん』ってドラマは、強烈なおばあちゃんが主人公でありながら、さしていいことを言わない。いや、いいことを言ったとしても、そのいいことの“ありがたみ”を過剰に受け取って、強烈おばあちゃんによる年の功の説得力でもって、決してすべてを丸め込まない。そんなところが今作の良心であり、さまざまな年の功ドラマを手がけてきた「土ドラ」においての(年の功ドラマってなんだよ!)新しさであり、アイデンティティだと、毎回偉そうに、居丈高に、ここで論評してきましたが(論評はしてない)、今回の第7話を視聴して、私のこれまでの『浅草ラスボスおばあちゃん』評が間違っていたこと、確認いたしました!!

主人公の強烈おばあちゃん・松子(梅沢)が、いいこと言うだの言わないだの、なんなら、前回、より色濃く描かれた、松子おばあちゃんの仲間たち――竹子(浅丘ルリ子)も梅子(研ナオコ)も、いいおばあちゃんだってのに、ちっともいいこと言わない。むしろ暴言はくし、悪態もつく(言い過ぎ)。

だけど、だからこそ、このドラマ素晴らしいよね!って。ほかの“いいこと言う”のみをアイデンティティとした、年の功ドラマへのアンチテーゼだよね!!って(だから年の功ドラマってなんだよ)したり顔をしておりましたが、この第7話を見て、その、偉そうなこれまでの私の論評が間違っていたこと、確認いたしました(偉そうに言うな)!!

うん、っと言いますのも、浅草の“ラスボス”おばあちゃんがいいこと言わない!それって意外だね!だからいいよね!!って、それはそれで、そうではあるんだけども、だったらじゃあ『浅草ラスボスおばあちゃん』ってタイトルはなんなんだ?って話なんですよ。

ラスボスつってんだから、いいことくらい言えばいいじゃないですか?ラスボスつってんのに、いいことも言わないおばあちゃん、だからいいよねー?じゃあ、辻褄(つじつま)が合わないじゃないですか?

だったら、最初からラスボスなんかつけないほうがいいじゃないですか?ラスボスじゃなくて、『てんやわんやおばあちゃん』とかにしとけばいいじゃないですか(ネーミングセンス最低)?ラスボスつってんのに、その実、真逆で深みを出すってのも、戦略としてはありなのかもだけど、それじゃあホントにただの戦略で、視聴者をキャッチーなタイトルで引きつけるだけの、タイトル詐欺じゃないですか??

だもんで、前回までの僕は、ラスボスおばあちゃんとか言ってんのに、全然ラスボス感はなくって、いいことも言わない…だからいいんだよね~!!って、その“ラスボス”おばあちゃんとつけられた、そのタイトルの意味について、受け流して、さして深く考えてないで、勢いで煙に巻いて、あえてラスボスおばあちゃんの真のラスボス性については考えることをやめていたわけです…。

だけど、うん、そう!!そうなんです!!!(何が)ラスボスおばあちゃんは、自分で、自ら、明確に、そう語ってきたように、ラスボス…それは“最後の砦”なのです!!最後の砦なんだから、決していいこと言うがアイデンティティではないのです!

誰にとっても、松子おばあちゃんが最後の砦…安心して頼れる存在、いや、そこにいるだけで“いい”と思わせる、それこそが、それこそが、このドラマのアイデンティティ!!なのです!!!

『浅草ラスボスおばあちゃん』とは、キャッチーなタイトルで引きつけといて、実はおばあちゃんなのに、さしていいことは言わない、いいこと言うおばあちゃんで突破しない…だからいいよね!ってそんな、浅はかなドラマではないのです(僕だけが言ってたんだけど)!!

『浅草ラスボスおばあちゃん』は、ラスボスでなければならない、ラスボスで然るべき、ラスボスだからこそ『浅草ラスボスおばあちゃん』と堂々と謳(うた)う!!そんな、そんなドラマだったのです(そらそうだろ!)。