“煩悩太郎”に意外な真相が待ち受けているだなんて思いもしない
これまで、何年テレビドラマを見てこようが、それが何百本だろうが、毎週のように東海テレビさんのドラマコラムを書き続けてこようが、そんな歴史とか蓄積とかノウハウとか放送枠の特性とか、まったく関係ないんですね?むしろ、それらの自負こそが邪魔で、それが強ければ強いほど“常識”にとらわれてしまうんですね…。
いやだって、あのオッサンは(オッサン言うな)、完全に、どうしたって、どう見積もったって“煩悩太郎”じゃないですか。ねぇ?いくらそれが、ひねりがなさすぎるとか、単純すぎるとか、そのまんま!つったって、“煩悩太郎”は誰?って話が、今回の本筋だなんて思わないじゃないですか(本筋ではないけども)。このドラマに、そんな謎解きのアッと驚くミステリー要素なんていらない…っていうか、そんなの用意されてるだなんて思いもしないじゃないですか?ねぇ(誰に!?)。
しかもしかも、あのオッサンが、ただのオッサンならいざ知らず、津田寛治なわけだよ??(だから、呼び捨てにすな)。あの津田寛治を、急に、冒頭から、何の脈略もなく、ドラマを用意するでもなく、ただただナチュラルに屋台の片隅に座らせて、実は…“煩悩太郎”じゃ、ありませんでした!!!って、そんなことあるわけないじゃないですか。
じゃあ、あんた誰!?じゃないですか。それって、テレビドラマの“常識”としてありえないじゃないですか?!だってだって、あの、あの津田寛治だよ(呼び捨て、いいかげんにしろ!)?
あの津田寛治の風貌からして、どっからどう見ても“煩悩太郎”じゃないですか。あの“煩悩太郎”が投稿した、あの居丈高な文体と相まって、“煩悩太郎”=津田寛治じゃないですか!?“煩悩太郎”でしかないじゃないですか。
だから最後に、あなた=津田寛治=“煩悩太郎”=なんですよね?ってなったとき、「実は…そうなんです♡(知ってた)」ってなっても、誰も文句言わないじゃないですか!あたりまえか!ひねりなしか!なんて、誰も怒らないじゃないですか?
で、そもそも、この『ミッドナイト屋台~ラ・ボンノォ~』ってドラマは、その辺の整合性に対して油断させる作りじゃないですか。今回、翔太(神山智洋)と輝元(中村海人)が結構マジな理由で衝突したってのに、結局、輝元は屋台の袖で見守る…しかも、かなり隠れるのが下手な感じ…という、そういう整合性は気にせず、「輝元!隠れるのヘタ過ぎんぞ!!」ってこっちがツッコめる、そんな余地が残ってる、こっちに油断させるつくり、じゃないですか??
だから、“煩悩太郎”が一体誰なのか!?ってそのサブストーリーに、意外な真相が待ち受けているだなんて、思いもしないじゃないですか。ねぇ?それが『ミッドナイト屋台~ラ・ボンノォ~』の“常識”ってもんじゃないですか!?ねぇ(まだ2話しか見てないのに、常識もなにもないけどさ)??
なのになのに、ホントにマジでアイツ、津田寛治演じる、あのオッサン、一体全体、誰だったんだよぉぉぉおおおおおおおぉぉーーーー!!!(もういい)
