2011年3月11日に発生した東日本大震災。
あれから15年。多くの子供たちが亡くなった小学校で、“新たなつながり”に思いを寄せる人がいます。

めざましmediaがお話を伺ったのは、震災により当時大川小学校の6年生だった三男・雄樹(ゆうき)さんを亡くした、宮城・石巻市の佐藤和隆さん。

佐藤さんは2022年から、大川小で追悼行事『大川竹あかり』を始めました。
「ある意味楽しみっていえば楽しみ」
あの日、多くの命が失われた大川小で、新たな“人と人との出会い”が生まれていました。

あれから15年…「ただそろわないのは、亡くなった息子の命だけ」

震災当時、大津波に襲われて児童74人(行方不明者を含む)・教職員10人の84人が犠牲となった大川小学校。
佐藤さんはこの場所で、亡き息子への思いを胸に『語り部』として子どもたちの命を守るためにあの日起きたこと伝え続けています。

そして大川小学校で今年開催5回目を迎えるのが、遺族たちが中心となり行われている追悼行事『大川竹あかり』。例年この時期にワークショップを開き、県内外から集まってくれた人々と“竹あかり作り”に励んでいます。

佐藤和隆さん:
当日すごいんだからね。500人から600人ぐらい集まる。震災前だって、この大川にこんなに人が集まることなかったからね。
別に遺族でも知り合いが亡くなったわけでもないんだけど“来る場所”になってる。

人々にとって“来る場所”となった大川小学校の2011年3月11日を、佐藤さんはこう振り返ります。

佐藤和隆さん:
地獄絵図ってこのことかなっていうくらい大変で。もうあちこちに遺体もあるし。でも、もしかしたら山に逃げているかもしれないって、山に登って必死に息子の名前を叫んだんですけど、なんの返答もなくて。

あの日、石巻市内で地震に見舞われた佐藤さん。翌朝帰宅しても雄樹さんの姿がまだなく、小学校に探しに行ったといいます。

佐藤和隆さん:
今思えばあのときって、みんな異常な状況で。だから子どもの遺体が見つかった親と会うと「遺体見つかって良かったね」って喜び合う。
そんな状況って今普通に考えたらおかしいよね。
でも、あの当時は生存の望みが絶たれて、「せめて遺体だけでも」とか、「骨だけでも」ってだんだん希望が変わっていくんですよね。あれだけたくさんの人が周りで死んじゃうと、しばらくはこれが夢か現実かっていうことも分からなくて、涙も出ないっていう時もあった。

雄樹さんが見つかったのは、震災から11日後の3月22日。

息子・雄樹さん(当時12歳) 提供:佐藤和隆さん

佐藤和隆さん:
すごく明るくて兄弟の中では1番ませてたよ。3人兄弟の3番目だから、妙に大人な部分と子どもの部分とがあったような感じ。
見つかったときは、俺はもう乱れるっていうか…。必死に抱きしめて号泣したっていうのは今でも覚えてるね。

佐藤和隆さん:
全部津波でなくなったけど、頑張って仕事をすればなんでもそろうんですよ。
ただそろわないのは、亡くなった息子の命だけなんだよね。
それが、時間がたつにつれて「あ、やっぱりいないんだ…」って実感して。いくら頑張っても買えるものではないし…。

我が子を失った佐藤さんは、同じような思いをする人が少しでも減ればと、震災から3年がたったころから『語り部』として立つようになったといいます。

佐藤和隆さん:
救える命は救う世の中になってもらいたいなっていう思いはすごく強いですよね。何ができるか分かんないけど、自分たちにできることってそれぐらいかなって。やっぱり子どもの命を大人が守るしかないんだよね。

この場所で起きたことを、子どもの命を守るために伝え続けている佐藤さん。
そして、「自分たちにできることを」という思いで取り組んできた『大川竹あかり』は、今年で5回目を迎えます。

「10年過ぎたからこそ、こういうことがやっとやる気になれた」
そう話す佐藤さんを突き動かしたのは、東京からの一本の電話でした。