震災当時、避難した高台から、町が津波にのみ込まれていく瞬間を撮影した佐藤さん。展示された写真の背景には、長い間 闘い続けた、心の葛藤がありました。
「私の心は入っていません」今も拭えぬ“罪悪感”を胸に撮り続けたあの日
あの日佐藤さんは、津波が水門を突破して町がどんどん壊れていく様を、自分の肉眼で見たといいます。
その時、これ以上撮るのはやめようか…と迷う中で、佐藤さんが考えた事は…
佐藤信一さん:
あれだけ強い地震が起きてもう津波も来ていて、これってうちの町だけじゃなく、宮城県一帯に津波が来てるかもしれない。そういったときに、記録をしっかり残す人間も必要なんじゃないのかな。そして、それは俺しかいないのかもしれないって勝手に思ったわけですよ。
でも、撮ってもいいものなのか、せめぎ合いがあったんですよね…。だけど、これはもうためらっている場合じゃなくて、撮るべきなんだろうなと。
撮ろうって決めてからは、もう心を殺して撮りました。
ガラケーが主流で、現代のようにカメラ性能が良いスマートフォンを持っている人は少なかった時代。そんな中、一眼レフが手元にあった佐藤さんは、“心を殺して”一心不乱に撮り続けたといいます。
しかし、その後も、葛藤が拭えたわけではありませんでした。
佐藤信一さん:
『(2011年)3月11日の写真だけは私の心は入っていません』っていう言い方をするんですよ。そこは客観的に撮るしかないのかなと心に決めて撮りました。そういう説明しかできない。
だって町が壊されて…防災対策庁舎においては人が流される瞬間を撮ってしまったわけだから。
展示写真の中には、防災対策庁舎の屋上に避難してきた人々を、津波が襲った瞬間を捉えた1枚があります。そしてその写真には、佐藤さんの、こんなコメントが添えられています。
「葛藤の中でシャッターを切った。恐ろしくて、私には肉眼で見た記憶がない」
当時、防災対策庁舎にいた人々は佐藤さんの顔見知りばかりで、その中には仲がよかった同級生もいたといいます。
佐藤信一さん:
顔ははっきり分からなくても、間違いなくあそこにいるなっていうのは分かっているので…。それに対してカメラを向けたっていう罪悪感は、やっぱり今も消えないですよね。
それでも、翌朝から再び、佐藤さんは避難先の高台の小学校から町に下り、カメラを向け続けたたといいます。
佐藤信一さん:
町の下に下りていくとやっぱり、ものすごい現実が待っていましたからね。それを目の当たりにしたときに、なんとも口には言い表せないような…。
それでも勝手な使命感で、撮らなくちゃいけないなと思って撮り始めた。勝手な使命感ですよ。誰から頼まれてるわけでもないので、それは大きな間違いだったかもしれないけれどね。
記録に残さなくてはいけないという使命感と、一方で感じる、人の死や悲しみにカメラを向けることへの罪悪感…。
そのはざまで揺れる佐藤さんの背中を押してくれたのは、同じ町の人たちだったそうです。
佐藤信一さん:
『外に出て写真を撮ってくるのがお前の仕事だから』って送り出してもらったのは、ありがたかったですね。町を回るのに『いいよ、自転車貸すから』って貸してくれたり。『これ持ってけ』ってパンとかおにぎりとかいただいて、食べながらやったこともあったし。壊れた家を撮ろうとしたら、そこの人が顔見知りで『あ、やばい、怒られるかな』と思ったら、怒られるどころか『あんた撮んないと撮る人いないから全部撮っていってね』って言われてね。
実は、この写真展の原点も、泣きながら「ありがとう」と声をかけられた、ある日の出来事がきっかけだったといいます。
震災から数日後、ボランティアが津波で流されて汚れてしまった写真を洗浄し、学校などに張り出しをしていました。思い出の写真を持ち帰ってもいいということで、その場所に佐藤さんも足を運びました。
佐藤信一さん:
俺が写っている写真は1枚もなかったんだけど、俺が撮った写真はいっぱいあったんですよ。
その時に、よくうちに写真を撮りに来てくれた女性が、俺の肩をポンポンと叩いて見せてくれたのが、その人の次男の七五三の写真だったのね。
「この写真出てきたのありがとうね。なんか頑張れそうな気がする」って泣きながら言われたときに、「俺何もしてないけどな…」と思いながら、「見つかった写真1枚で元気になってくれるんだ。写真には、力があるな」と。
この出会いが、写真展のテーマ『写真の力を信じて』の原点になったといいます。
そこには、佐藤さんにとって思い入れのある1枚の写真が飾られています。
