さまざまな世界で活躍するダンディなおじさまに、自身の半生を語ってもらう「オヤジンセイ~ちょっと真面目に語らせてもらうぜ~」。
年齢を重ね、酸いも甘いも経験したオトナだからこそ出せる味がある――そんな人生の機微に触れるひと時をお届けする。
今回は、プロレスラーの蝶野正洋が登場。1963年にアメリカ・シアトルで生まれ、2歳半で帰国した彼は1984年、新日本プロレスへと入門し、20歳でデビュー。闘魂三銃士、nWo 、TEAM2000などで一世を風靡した。
その後、タレント活動を開始し、“大みそかのビンタのオジサン”としてお茶の間の人気者となったほか、近年は日本消防協会の消防応援団としての活動も精力的に行っている。
蝶野がどんな少年時代を過ごし、どんなふうにプロレスの道へと進んだのか。新人時代に経験した苦い思い出、アントニオ猪木や長州力らスター選手らとのエピソード。そして、還暦を数年後に控えた現在の思いなど、前後編で紹介する。
サッカー強豪校への推薦入学を前にケンカで新聞沙汰。人生初の挫折を経験した
僕は親父の仕事の都合でアメリカに生まれ、2歳半で帰国しました。家族構成は両親と子ども3人。僕は末っ子です。当時は日本語がまったくしゃべれないから、靴のままで家の中に入るなど無礼なことをしていたらしく、同じ社宅住まいの子どもたちからイジメられていました。
社宅の裏に呼び出されてケンカになり、逆にやり返して2人の子を泣かしてしまってね。日本語がしゃべれないことへの反発もあって、いつの間にかガキ大将みたいになっていました。
当時、夢中になっていたこと?3歳か4歳の時、誰かが社宅に置いていった足で漕ぐ(子ども用の)車があって、だいぶ錆びついてボロボロになっていたんだけど、それを狂ったように漕いでいたから、まわりからは「豆ダンプ」と呼ばれていました(笑)。
親父が高校までサッカー、兄貴が小中と野球をやっていた影響で、正月は家族そろって明治神宮へ初詣に行き、その後に男だけで国立競技場へサッカーの天皇杯を観に行くことが恒例行事でした。
1974年に、西ドイツでのワールドカップをNHKで初めて生中継することになり、兄貴が買ってきた世界のサッカーやペレ特集の雑誌を一緒に見ていて、自然と僕もサッカー好きになっていきました。
中学でサッカー部に入り、高校も強豪校へ推薦で入学することが決まっていたんです。でも、筆記テストがあって、普通なら1科目60点ずつ、3科目で180点とれば入れるところを、僕はその半分の合計90点とればいいと言われていて。
そうしたら、古典が0点に近い結果でトータルも80数点しかとれなくて、先生も「お前、どうするんだ!?」と。さらに、ケンカで新聞沙汰を起こしてしまい、どこの高校にも行けなくなってしまったんです。
結局、二次募集があった都立高校へと入学したのですが、高校サッカーで東京代表に選ばれて全国大会出場という、僕の中で勝手に描いていたサクセスストーリーが崩れてしまった。そこで人生初めての挫折を経験しました。
この都立でもサッカー部へ入り、そんなに強いところではなかったんだけど、東京大会でベスト16ぐらいまではいったのかな。1、2年生と西東京選抜の練習に呼ばれていたのですが、俺、パンチパーマで剃りこみも入れていて、その身なりが監督にとってはダメだったみたいでそこから先へ進むことはできませんでした。
当時はかなりヤンチャもしていたけど、俺らの時代は不良=ファッションだったんですよ。スポーツ万能のヤツらがヤンチャもやる、ケンカもやるという時代でした。
高校生のとき、上の連中にケンカを売って、こっちは4、5人、向こうは10人ぐらいいて、俺たちがボコボコにやられちゃったんです。「これはやり返さなきゃいけない」と、中学の仲間に「人を集めてくれ」って頼んだら200人ぐらい集まっちゃって。相手側は、80人ぐらいいたみたいです。
ケンカは昼から始めることになっていて、その時間にあわせて行けばいいと思ったから、午前中は学校へ顔を出していたんです。そうしたら、鉄パイプなんかを持っている若い連中が大勢集まっているものだから、警察へ通報されてしまって、「どうやら主犯は蝶野らしい。でも、現場に蝶野本人はいない」と。
それまで、ケンカで2回ぐらい停学をくらっていたから、校長室へ呼び出されて「君、今日何かあるのか?」と。すぐにピンときたんだけど、「いや、何も聞いてないですけどね」ってシラを切ったの(笑)。その後、警察でも取り調べを受けて、こちら側の主犯は少年院行き。俺はギリギリで免れました。
そんな高校時代を過ごしたから、当然留年するものだと思っていたんですが、かろうじて卒業できて。その後のことは何も考えていなくて、地元でフラフラしている先輩たちと遊んでいたところにこれじゃダメだと思い立ち、予備校へ通い始めました。
猪木さん、藤波さん、長州さんたちスター選手を見て、この階段は昇りきれないと思った
それぐらいのころに、テレビでプロレスの試合を見たんです。当時は金曜夜8時にプロレスを放送していて、他には『3年B組金八先生』や『太陽にほえろ』なんかをやっている熱い時代だったんだけど、俺、金曜の夜は単車で走ったり、夜遊びしたり、悪いことばかりしていたから、見たことがなかった。
プロレスのカッコよさに心を奪われてしまいましてね。サッカーを途中で諦めていたから、トライしてみるかという感じで新日本プロレスの入門テストをこっそり受けました。入ったはいいけど、初日から限界を感じました。同期が7、8人いて、普通は1週間ぐらいで半分以上辞めていくんですが、俺たちの同期は結構残っていましたね。
最初にケンカになったのは橋本真也選手。新人は先輩の掃除、洗濯といった雑用をやらなきゃいけなくて、洗濯しようとしたらまだ前の人のものが入っていたわけ。だから、洗濯機の上に俺の洗濯物をおいて順番待ちをして、何十分か後に行ったら、まだ俺の洗濯物が上に置いてあったんですよ。でも、洗濯機は明らかにまわしたばかりの状態で。
「誰だ!俺の順番、飛ばしたの!」って怒鳴ったら、橋本選手が「俺だよ」って。向こうは2歳下だし、「テメー、ふざけんな。このやろう」と口論になって、結局ケンカ寸前で先輩たちにとめられました。
当時、仲間はいなかったですね。誰かが辞めてくれたらライバルが減るから、それを待っている状態。俺たちのすぐ上には1、2年先に入った先輩がいて、そして、中堅の先輩たちもいる。その上にはもうすぐメインエベンターに行くんじゃないかっていう前田日明さんや高田延彦さんがいて、さらにその上に藤波辰爾さん、長州力さん、坂口征二さん、アントニオ猪木さんがいる。それを見た時に、この階段は昇りきれない、絶対に無理だと思いました。
プロの洗礼を浴びたデビュー戦。試合30分前に「お前、靴は持ってるか?」って
現役時代の思い出はいろいろあるけれど、笑い話という意味ではデビュー戦ですね。対戦相手は武藤敬司さんでした。
先に橋本選手がデビューしていて、次は「武藤だ」と言われていたのですが、武藤さんのデビュー戦の約2週間前に長州さんたちが仕掛けたクーデターが起き、生中継のカードがグチャグチャに変わって。上は大慌てしていたけれど、俺たちはよくわかってないから、長州さんたちが抜けたらチャンスがまわってくる。ところてん式に上にいける、ぐらいにしか思っていませんでした。
そんな状態だからデビュー戦なんてほとんど忘れられていて、武藤さんの対戦相手も空欄のまま。俺は猪木さんの付き人をやっていたから控室の中央にいたら、試合開始30分ぐらい前になって「誰か空いてるヤツいないのか?」って。「お前、靴持ってるか?」と聞かれ、「はい」と答えたら、「じゃあ、お前、武藤とやれ」って、いきなりデビューですよ。
前座の試合なんて誰も観てくれないから客もまばらでね。ボディチェックされても、「靴紐はちゃんと結べてるかな?」とか「パンツにシミ、ついてないかな?」とか気になっちゃって、しかも、動くとパンツが食い込むから恥ずかしくてしようがないんです(笑)。
ゴングは鳴ったけど、スパーリングみたいな動きしかできなくて、開始3分ぐらいで片エビ固めをキメられてしまって。どうすることもできずに、「ギブアップ、ギブアップ」って小声で言ったら、レフリーの柴田勝久さんが俺の耳元で「まだまだ」って。
何のことだかわからなくて「えっ!?」となっていたら、武藤さんも一旦離れて、そして、また技をキメられて。再び「ギブアップ」を訴えるんだけど、柴田さんは「まだまだ」って受け入れてくれない。ギブアップをとってくれたのは結局、3回目でした。
その理由を理解したのが、俺たちが若いヤツらを指導する立場になったとき。一番たいせつなのは力を出しきることだと。俺の場合は力を出しきってもいないし、客にアピールもできていない。要は、プロの試合ではなかったんです。
柴田さんが示していた「こんなもんで試合を終わらせて、それでお前らは金をとるのか」という論理がまったくわからなくて、それが理解できてからは恥ずかしくて、デビュー戦のことは誰にも打ち明けられませんでした。
「まだまだ」といえば、猪木さんの付き人をしていたころに、異種格闘技戦で猪木さんがプロボクサーのレオン・スピンクスと対戦した時。レフリーをガッツ石松さんがやったんです。
1R早々、猪木さんがキメに入ったら、スピンクスがギブアップしてるんですよ。俺はセコンドについていたんだけど、ガッツさんがここでギブアップをとってしまったら、俺のデビュー戦以下の試合になる、暴動になるぞと不安になって、さらに、ガッツさんだからプロレスを知らないんじゃないかとドキドキしていたら、ガッツさんが「まだまだ」って。
ガッツさんといえど、プロだからわかってるんだなと妙に感心したことを覚えています(笑)。
闘魂三銃士で脚光を浴び、ヒール転向後に人気を実感した
87年、第3回ヤングライオン杯で優勝した後、海外武者修行へ出発し、ヨーロッパ、北米を転戦。88年には短期凱旋をし、新日本プロレス有明コロシアム大会に参戦。帰国直前にプエルトリコで武藤さん、橋本選手と「闘魂三銃士」を結成しました。猪木さんの“闘魂”を継承した3人組ということで、メディアにとり上げられることも増えていきました。
有明コロシアム大会の凱旋帰国の時、ロサンゼルスの空港で合流して、3人で日本へ向かったんですが、機内で「今回はかなり期待されているからギャラもすごいらしい。1試合100万円ぐらい出るだろう」という話題で盛り上がりました。
当時は1試合のギャラが50~60ドルで、1週間に4、5試合やってなんとか食べていける生活だったから、1試合100万円はあり得ない数字だったんです。
日本に到着し、タラップを降りていったら10社ぐらいのカメラマンがゾロゾロと入ってきて、バシャバシャと写真を撮っていて。「誰か有名人でも乗ってるんじゃないか?」と振り返ったら、「こっち向いてください」って。「え、俺たち?」と目を合わせたら、3人とも目が¥マークになっていました(笑)。
自信をもってリングへ上がれるようになったのは、黒(ヒール)へとイメージチェンジして、nWo JAPANを結成した後、97、98年ぐらいかな。相撲でいったら西と東、プロレスでいったら赤コーナーと青コーナー、その片側のトップをはろうと。
そうすると、これまで同列で比較されていた先輩たちと対面になって、すべて対戦しなきゃいけない。これがおもしろかったですね、敵がたくさんいるから。今回は橋本選手、次は長州選手、藤波選手って。
地方興行へ行っても、選手たちは誰の声援が一番大きいかということをチェックしていて、俺たちが入場していくと明らかに大きな声援が聞こえてくる。そんなふうにお客さんからも支持してもらえるようになったときには力もついていて、先輩や外国人選手とマッチされても、どうとも感じなくなっていました。
<後編>へ続く。
蝶野正洋公式サイト
*6月19日(土)18:00~YouTube蝶野チャンネル「アリストトリスト MEN’S BEAUTY 男の身だしなみ」LIVEを配信。スペシャルゲストは橋本大地選手。詳細はCHONO MASAHIROオフィシャルブログで。
撮影:河井彩美