幼少期から「キラキラした人への憧れ」を持っていたという兒玉さんは、父の勧めでHKT48のオーディションを受けて15歳で合格。
その日に書いた“反省ノート”には「センターとるくらいで人一倍努力する!」と決意をつづっていたといいます。

そして、歌とダンスが未経験ながらも1期生として加わった兒玉さんに当時を振り返ってもらうと、同期の村重杏奈さんや宮脇咲良さんとの実力差に圧倒されたことを明かしました。

「レッスンはスタッフへのアピールタイム」HKT48加入当初の激しいポジション争い

――HKT48の1期生として加入された兒玉さんは、歌とダンスが未経験だったということですが、レッスンではどのように過ごされていたんですか?

初めてのメンバーとの顔合わせでは、レベルの差に驚きました。
すでにしっかりダンスレッスンを受けてきた子たちが多い中で、私はリズムを取ることすらできていなかったんです。

専用のレッスン場にダンスの先生が毎日来てくださって、課題のダンスや基礎練習とかをしていました。そこではメンバーで教え合うというよりは、センターとかフロントメンバーに選ばれるための“スタッフへのアピールタイム”みたいな感じだったんですよ。

だから、誰が1番上手に踊れるかとか、存在を見てもらえるかの競争がレッスン当初からもう始まっていたので、助け合いをしている場合じゃないよねという雰囲気でした。でも、みんな自分のことで精一杯だから、それが普通だと思います。

――同じ1期生の中でも、特に兒玉さんがレベルの差を感じたメンバーはいましたか?

村重杏奈ちゃんや宮脇咲良ちゃんは存在感がありましたね。

私は当時グループのメンバーに選ばれる前は、「ちょっとはクラスでいけてる方じゃん」ぐらいに思っていましたが、レッスンが始まってからは、それが砕け散りまして。

やっぱり自分よりできる人がこんなにいるんだと知りましたし、こんなに可愛い子がいるんだって、すごく周りと比べてしまいました。自己肯定感がすごい低くなってしまい、そのときは本当に自信を持てなかったです。

――その二人は兒玉さんにとってどのような存在だったんですか?

もう世界が違う人みたいで。私はダンスの基礎もないから、まずリズムが取れないですし。「なんでできるんだろう」みたいな。「めっちゃダンスできる!すごーい!」という感じでした。

今はそれぞれの道を頑張っていますが、私から見ると、咲良は今も休まず、ずっと走っているイメージがあるので、本当に努力の賜物だなと思っています。

「センターとして何を頑張れば…」グループの顔になることへの戸惑い

レッスンは、メンバーそれぞれが必死にアピールする“ポジション争い”だったと語る兒玉さん。
歌もダンスも未経験ながらも「センターとるくらいで人一倍努力する!」と加入当時に決意していたセンターにHKT48の初めてのステージで抜てきされます。

グループの顔でもあるセンターになることは、アイドルとしての喜びの一つかと思いきや、周りと比べて劣等感を抱いていた兒玉さんは戸惑いが大きかったそう。

――兒玉さんはHKT48のお披露目のステージでセンターを務めることが決定したとき、周りの反応はどのように感じていましたか?

(周りは)うれしくなかったと思います。ひっくり返るほどびっくりしていたんじゃないですかね。

私は本当に「え?」って感じでしたが、周りも「歌もダンスもできないのに、なんで?」と思う子は多かったと思います。

――今の兒玉さんが振り返って、当時の自分はなぜセンターに選ばれたと思いますか?

みんなが引き立つ。できなさすぎて下手だから、周りが超引き立つという感じですかね。バランスが逆にいいみたいな。

センターとしてステージに立っている間は、間違えないようにもう必死でした。

お披露目ステージでセンターとして舞台に立った兒玉さんは、その約1ヵ月後に控えた初の劇場でもセンターを務めることに。
「選ばれたからにはやるしかない」という責任感から、当時16歳の兒玉さんは“反省ノート”に「ふさわしい人間になれてない」「自分に甘い」「体型がよくない」と、理想を追い求めて自身に対して厳しい言葉をつづります。

そして、劇場公演などを終えた後、デビュー曲『スキ!スキ!スキップ!』ではセンターではなかったものの、18歳の時、4thシングル『控えめI love you!』で再びセンターに抜てき。他にも『74億分の1の君へ』などでもそのポジションを務めます。

そんな兒玉さんにとって「センター」というポジションは、アイドル活動の中でプレッシャーの一つになっていたといいます。

――お披露目ステージでのセンターと、その後のシングルでセンターになったときの気持ちに違いはありましたか?

グループのお披露目のときは全然喜べない自分がいたというか、戸惑いながらセンターに立っていましたね。

4枚目でセンターに立ったときは、後輩も入ってきて、自分なりにグループが有名になるためにみんなで頑張ってこられていた感覚がありました。ちょっとは認めてもらえたのかなという。ファンの皆さんにもですし、メンバーとかスタッフの方からちゃんと見てもらえて立てているという感覚は、最初のときよりもちょっとありました。

でも、本当に何が正解かわからない中で活動をするというのが、自分の中では、終わりが見えない山をずっと登っているみたいな感覚で。頑張りたい気持ちはあるけれど、センターとして何を頑張ればいいかというのは結構曖昧な感じでした。

――やはり兒玉さんの中で、「センターになりたい」という気持ちは常にあったのでしょうか?

センターになりたい…。
でも、最初の方は親と約束していたのもありました。「センターになれなかったらアイドルを辞めて高校受験をしよう」と。なので、自分の中でセンターでいなくちゃ!みたいにずっと思っていた部分はやっぱりありますね。

――「センター」でいうと、同じHKT48のメンバーだった指原莉乃さんは総選挙で1位を獲得し、AKB48のシングル曲でセンターを務めるなど活躍していましたが、兒玉さんには指原さんはどのような存在に見えていましたか?

もうスーパーアイドルだなと思っていました。
やっぱり指原さん自身もアイドル好きだったので、ファンの皆様の気持ちがよく分かっていましたし、コンサートでも盛り上げるのがすごく上手で、“アイドルの教科書”みたいな人だと思っていました。

休みの時間にランチに誘ってくれたりだとか、劇場公演に出る時も前日に振り付けを何十曲と覚えていらっしゃって。タフというか、その能力の高さに結構びっくりしましたし、近くですごく刺激をもらっていましたね。

「センターとして何を頑張ればいいのか…」
そんな思いがありながらも“完璧なアイドル”を目指し続けた兒玉さんは、その裏で18歳ごろから顕著になった「眠れない」という悩みや、オンオフが切り替えられないストレスを抱え、さらに“反省ノート”には「デブ」「ブス」「痩せろ」などと自分を罵る言葉を書き続けました。

そんなストレスを抱えた中でも、19歳のときに立候補した総選挙で9位を獲得しますが、その日の夜以降、幻聴と幻覚が日常的に起こるように。
さらに、SNSでの自分への批判を見るのをやめられず、心身が限界を迎えた兒玉さんは、2017年2月、双極性障害と診断され、休業を余儀なくされました。この時、20歳でした。

「会話もままならない…」アイドル活動のさなかで双極性障害に

――アイドル活動のさなかで双極性障害を患って休業されていますが、当時の兒玉さんの心境はどのようなものだったのでしょうか?

アイドル時代に書いていた「反省ノート」には、ネガティブな言葉を書き連ねて、SNSではネガティブな言葉を眺め続け、次第に前からあった不眠や不安感は強くなっていきました。
2017年のコンサートで、私は舞台袖にいたのですが、爆発してしまい気がついたら座り込んで大きな声で泣いていて。そこから一歩も動けない状態になってしまい、一度アイドルを休業することにしました。

1回目の躁うつ病は、結構甘く考えていましたね。
ちょっと休んだから大丈夫でしょうという気持ちがありましたし、仕事を休むことに対して、グループでの居場所がなくなるかもと焦りが出てきてしまったんです。休んでいましたが、まだ自分が躁うつ病だということをしっかり受け入れていなかったと思います。

――そうして約2ヵ月の休養で復帰したものの、同じ年の12月に再び双極性障害で休業をされたかと思います。1度目との違いはありましたか?

2回目の方は、まだ治っていないのに焦りで復帰したこともあり、落ちるとこまで落ちたなという感覚がありました。

仕事をしていく中で、明らかに日々の業務ができない。会話もままならないですし、体に染みついている歌やダンスが思い出せない感じだったので。しっかりと自分の中でゲームオーバーだという認識ができて、受け入れるしかないくらい自分が弱ってしまったので、休もうとすんなり思いました。

――そのような精神状態でありながらも、メンバーには純粋に打ち明けられないというところは、当時つらかったのではないでしょうか?

そうなんですよね。多分周りの人から、すごい変だなと思われていたと思うんです。メンバーも心配してくれていましたが、「うつ病なんだ」とは言えなかったです。

心配されたくないという思いが最初に来て、迷惑をかけたくないと思ってしまって、余計何もできなくなっていましたね。

2度目の休養期間は1年半。2019年6月、双極性障害を克服した兒玉さんは、そのままステージに戻ることなく、22歳でHKT48を卒業。俳優への転身を発表しました。

――そんなつらかったアイドル時代は、今振り返ってみると、兒玉さんにとってどのようなものでしたか?

今となれば愛しい思い出ですが、本当に全力疾走で燃え尽きたという感じですかね。
5年間でぎゅっと走って、ぎゅっとちゃんとくたばったなと思います。

――もう一回人生をやり直せるとしたら、またアイドルをやりますか?

やりますね、多分。でも、楽しむという前提を忘れていたなと思います。周りが見えなさすぎていたといいますか。なので、次はもう少しのびのびと楽しみたいですね。

2度の双極性障害を患い、「落ちるとこまで落ちた」と語った兒玉さん。インタビュー後編では、壮絶な闘病生活とともに、どん底から救ってくれた母の言葉を語ってくれています。

【インタビュー#2】2度の“うつ”を患った元HKT48・兒玉遥 “戻れる確率は1割”の闘病生活で支えになった母の存在を語る「お母さんのご飯が幸せだった」

撮影:河井 彩美

【書誌概要】
書名:1割の不死蝶 うつを卒業した元アイドルの730日
著者:兒玉遥
発売日:2025年9月19日
定価:1760円
発行:KADOKAWA