両親の老老介護を、実の娘はどんな思いでカメラに収め、文字に綴ったのでしょうか。

ドキュメンタリー映像作家の信友直子さんが、認知症の母・文子さん(80代)と、老老介護をする父・良則さん(90代)の姿を記録し、ドキュメンタリーとしては異例の20万人を動員した映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」(2018年)。

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公開後、作品には映らなかった娘の胸中を綴った同名書籍(2019年)は多くの共感を呼び、11刷を重ねました。

そして2022年3月。その後の両親の絆と、母の看取りまでをおさめた続編映画「ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~」が公開。

同時期に刊行された続編書籍「ぼけますから、よろしくお願いします。おかえりお母さん」(新潮社)も発売前重版がかかるなど、話題を集めています。

撮影者であると同時に実の娘である著者が、どんな思いでカメラを回し、言葉を紡いだのか。書籍と映画の製作秘話を聞きました。

――1作目の映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」が2018年11月に公開されたあと、同名の本を執筆されたのは、どんなお考えからですか?

映画って、あまりナレーションとかで説明してしまうと、そのひとつの見方しかできなくなってしまうんですね。なので、みなさんにご自分の両親や、ご自分のこれからを重ねて見ていただけるように、あえて余白のある作りにしたんです。でもその分、自分の中では、映画だけでは伝えられなかったことが結構あって。

たとえば、腰の曲がった父が買い物に行き、重い荷物を両手に下げて帰る途中、すごく大変そうに下を向いたまま動かなくなる場面があります。私としては、そのときの自分の気持ちや、父の行動の経緯を説明したいけれど、映画だとできない。

それで、自分の気持ちをどこかに書きたいなと思っていたところ、映画を見に来てくださった新潮社の方が「書きませんか?」と言ってくださったので、渡りに船という感じでお引き受けしました。

――確かに、映画はさまざまなことを想像させる内容ですね。

本とは全然違う作り方です。で、本を読んでもらって、いろいろわかった上でもう1回映画を見ると、「ああ、そういうことなのか」と新しい発見がある。なので、いいメディアミックスになったかなと思います。

――本を書いたことで、ご自身にも新たな気づきがありましたか?

ドキュメンタリーの場合は、カメラを回して撮った膨大な映像をもとに編集していくので、私も時には気分でつないだりするところがあるんです。でも、本は言葉選びから始めて、一から言葉を紡いでいく作業。思いを言語化することで、自分がどういうことを考えているかがより鮮明になった部分はあります。

――ご自身にとって、撮る作業と書く作業はかなり違うのでしょうか?

全然違うもの、という感じですね。私は、撮る作業自体はものすごく好きで、ホントに好奇心の赴くままに撮っています。それは、母が倒れてすごく大変なシーンでも同じで、つらいだけではなく、心のどこかで「このあと、どうなるんだろう」とか、「お母さん、こういうふうになったんか」と思っている。

切迫した状況であっても、ある意味、ワクワクしながらやっているんです。

一方、文章を書くのは、映像でいうと編集作業に似ていて、自分の頭の中に蓄積されているシーンをどう構成して、どういうふうに文字にしていくかを、自分の中で丹念に練り上げる感覚が強いです。

――その書く作業自体も、楽しんでやっていますか?

そうですね。私は子どもの頃から文章を書くのは好きだったんです。でも、なぜかわからないけど、「映像が自分の仕事」というふうに思ってそっちをやってきた。1作目の本を書くまでは、文章を書くのを仕事にしようと思ってこなかった人生なんです。

それが、1冊目を書いてみて、もしかしたら私、映像よりも文章を書く方が向いているのかも、と思うぐらい(笑)、書くことが好きだなってよくわかりました。

“撮られていること”を自覚し始めた父が、決めゼリフを言うように

――約20年前にご両親をビデオカメラで撮り始めたのは、自ら撮って編集もできるディレクターになるためだったそうですね。その協力者として、ご両親が身近な被写体だったと。その後、2014年にお母さんが認知症と診断されてからも撮り続けたのは、何かきっかけがあったのですか。

2001年から撮り始めてしばらく経つと、仕事でもカメラを使うようになって撮影も上達し、両親を撮るのはもうやめようかなと思ったときもあったんです。

しかし、そうこうするうちに、2007年に私に乳がんが見つかりました。それで、私のディレクターとしての業(ごう)のなせるわざなのか、その顛末も自分で撮ろうと思ったんです。

そうなると、広島から上京して私の部屋でともに暮らし、闘病を支えてくれた母も登場するわけです。そのときの、家族でがんばった記録が、それまでのような練習台としての撮りっぱなし映像ではなく、ひとつの作品(※)としてテレビで放送されたのは、自分の中で大きかったです(※フジテレビ「ザ・ノンフィクション おっぱいと東京タワー ~私の乳がん日記~」2009年)。

たぶん、あの経験がなかったら、その後、プライベートで十何年もカメラを回したりしなかったと思うので。両親としても、日常的に撮られた映像がテレビで放送されたりするというのは、驚いた部分があったかもしれないですね。

――そうして撮り続けた映像が、2016年と2017年にテレビで放送されると大反響を呼び、2018年に映画化。1作目の映画がドキュメンタリーとしては異例の20万人を動員し、2冊の書籍も重版を重ね続けています。

すごく嬉しいことです。このプロジェクトを始めた頃は、父も母もごくごく普通の、誰も知らない一般人ですし、「いったい誰がこの映画を見てくれるんだろう?」と自信がなかったんです。

でも、今思うに、きっと、うちの親が普通の人だからこそ、みなさんもご自分の両親と重ねやすかったのかなって。もし、これが特別な誰かであれば、もうその人のドキュメンタリーになっちゃいますので。

――1作目の公開後も自分たちを撮り続ける娘さんを見て、お父さんも、また公開されることを意識しながら撮られていたのでしょうか?

絶対そうだと思います。「こんなおいしいコメントを言う人だったっけ?」というぐらい、いい話や、決めゼリフを言うようになったので(笑)。それは恐らくカメラサービスだと思いますし、父としても、この映画はもう、母と私と一緒に作る“家族のプロジェクト”だと捉えていると思います。

ですので、父も2作目の公開前には、チラシとポスターをいろんなところへ配りに行き、自主的に営業活動をしていたみたいです。私の小学校の同級生が、「道端で、シルバーカーを押して歩いているお父さんに会ったよ」って、スマホで撮った父の写真を送ってくれたんですけど、よく見ると、シルバーカーの上に映画のチラシとポスターが置いてあったので(笑)。

それが父の日常の新たなハリになっているのは、プロジェクトの副産物としてホントによかったと思います。

新聞連載は、コロナ禍において社会と自分をつなぐ“蜘蛛の糸”だった

――新刊「ぼけますから、よろしくお願いします。おかえりお母さん」は、2020年4月から約1年半、広島の地元紙・中国新聞で連載されたエッセイ「認知症からの贈り物」が土台になっていますね。

自分で言うのもなんですけど、おかげさまで名物連載になり、終盤のころには、中国新聞の読者からのお便り欄にも、連載を読んだ感想が頻繁に載るようになりました。連載の途中で、新潮社さんから「本にしましょう」と言われたのもすごく嬉しかったし、ぜひ広島以外の人にも読んでほしいと思ったんです。

それに、連載が始まったのがちょうどコロナ禍に突入した時期で、それまであった講演会や上映会が全部なくなり、すごく孤独になったんですよ。

私にとっては、人とつながることが最大の喜びなので、それができなくなってすごくつらかったんです。そんなときに、この連載が本当に、社会と自分をつなぐ“蜘蛛の糸”みたいな感じになっていた。その自分の必死な思いが反映されている気もするので、形になってとても嬉しかったです。

――執筆されるうえで、心がけていたことはありますか?

新聞連載なので、毎回、字数が800字と決まっていたんですね。それに合わせて書く作業は、何回も推敲して、自分の中で練り上げる感覚が1作目以上にあったし、その分、考えることがより増えました。それに、自分の持ち味として、ユーモラスな文章にしようと思っていたので、最後にオチをつけてちょっと笑わせる工夫もしたりして。だんだん自分もそれに慣れてきて、楽しんで書けるようになりました。

――連載時の内容に加え、終章では書き下ろしで、老老介護を見事に成し遂げた父・良則さんについてたっぷり書かれていますね。

書籍化にあたり、新潮社の編集さんから、「お父さんがこれだけ魅力的なんだから、もうちょっと取材をして、お父さんの章をつくってほしい」と言われまして。確かに、父のことをちゃんと書いた回はなかったなぁと思って書きました。

父は耳が遠いので、映像だと、耳元で私が何か訊いても、ふんわりとした答えしか返ってこないんです。でも今回は、取材をして私が書いた原稿を、父が細かくチェックし、「これはこうじゃなくてこうだ」としっかりダメ出しをしてくれたので、ちゃんと事実に基づいた明確なものができた。

父は今も、新聞3紙を読み比べているほど活字が好きな人。そんな父との活字のやりとりで、内容がどんどんブラッシュアップされていったのはよかったと思います。

だから、本が出たときは父もすごく喜んでいましたし、最後の章がやっぱり気になるみたいで、本を手にするとすぐに読んでいました(笑)。

父を一人の人間とみることで、日本の近代史や現代史がオーバーラップしてみえた

――信友さんは、以前はお父さんに対してあまり関心がなかったものの、認知症になったお母さんを愛情深く介護する姿を見て、その偉大さに気づいたと書かれています。終章の執筆で、また新たな発見はありましたか?

今回、父の若い頃の話をじっくり聞いて、父の性格に、戦争が大きな影を落としていることがわかったのは、すごい発見だったなと思います。父は大正9年の生まれで、戦争中は陸軍に召集されていました。本当なら旧制高等学校に進学して語学を勉強したかったのに、その夢は断たれ、無二の親友は戦死。無謀な戦争だとわかっていても、信じてやっていくしかなかったことが、敗戦を境に“この戦争は過ちだった”と、すべてがひっくり返るような経験をしました。

昨日まで「大日本帝国、万歳!」と言っていた目上の大人の中にも、手のひらを返したように拝金主義に走る人たちがいたのも、ものすごくショックで、「ワシはそういうふうにはならん」と、かなり厭世的になっていたみたいなんです。

だから、母と出会う前の昭和20年代ごろの父は、精神的にすごくやさぐれていたんだと思うんです。そんな苦しみから父を救ったのが、たぶん、母だった。

母と出会ったことで父は救われ、さらに私が生まれたことで、未来への希望がまた見えてきたのではないかと。母をあそこまで大事にし、母が2018年に脳梗塞を起こして入院してからも、毎日、病院まで1時間かけて面会に行っていたのは、自分を厭世的な気分から救い出してくれた恩人だからなのかもしれない、というのがだんだんわかってきたんです。

ホントに10年ぐらい前までは父というものにまったく興味がなかったのに、こうして戦前から生きてきた一人の人間として父を見ていくと、日本の近代史や現代史とオーバーラップするのが見えた。すごくおもしろいなと思うようになったので、実は、父のことはもうちょっと深く考えてみたいなと思っています。

――ご自身も、家族の歴史を深く掘り下げることになったのですね。

こんなことをすることになるとは思ってもみなかったですけどね。深く掘り下げようとも思ってなかったし、ホントに普通の家なので、掘り下げてもたいしたものは出てこないだろうと思っていたんですけど(笑)、人にも家族にも歴史があるなぁというのを身に染みて感じました。

――一連のプロジェクトを通して、ご自身も、人生が動いたような感覚はありますか。

そうですね、そう思います。経済的なことで言うと、これまで私はフリーランスで仕事をしてきましたが、私も60歳ですし、この先は仕事も少しずつ減っていくだろうと思っていました。そうなると、私は一人暮らしで、自分の食い扶持は自分で稼いでいかなきゃいけないので、ちょっと不安だったんですよね。

で、それはたぶん、父も母も、私には言わないけれど、「この子はこれから先、ワシらがおらんようになったらどうするんじゃろうか」と心配だったと思うんです。それでもしかしたら、このプロジェクトがあれば、この子は食いつないでいけるんじゃないかと思って(笑)、プレゼントしてくれたんじゃないかなと。

実際、このプロジェクトを始めてからは、テレビの仕事を次から次へと入れなくても、呉に帰って“娘業”をすることができているので。それはホントに親からのプレゼントだなと思うし、父が自分の身を呈して共同作品を作ってくれたわけだから、今度は私が父への恩返しとして、できるだけ呉に帰って“娘業”をしようと思えるようになりました。

――東京のご自宅と呉のご実家を、年にどのくらいの頻度で行き来しているのですか?

今は半々ぐらいですね。元気とはいえ、父ももう101歳で、心配は心配なので。だけど父は性格的に、「ワシは元気なんじゃけん、自分のことは自分でやります」という人で。そこには父のプライドもあるので、「そうはいっても心配じゃけん」とは言えないんですよ。

なので、父にはあまり「心配だ」とは言わないようにしつつ、気が付いたら、「あれ? あんたずっとここにおるのぉ」というふうになるように、少しずつ帰る頻度を増やしていこうかなと。

父のプライドを傷つけないペースで、気が付いたら二人暮らしになっていた、というのが理想かなと思います。

©萩庭桂太

取材・文:浜野雪江