漬物を中心とした食品の製造・卸売業を営む泊綜合食品株式会社(本社:鳥取県鳥取市)は、2024年12月25日で創業50年目を迎えました。
この節目に、3代目となる代表取締役社長である岸田いずみから、泊綜合食品の歴史を振り返り、今後の展望について話を聞きました。
泊綜合食品株式会社 代表取締役社長 岸田いずみ
創業は地元の大根から
泊綜合食品の創業は1974年。私の祖父にあたる創業者 岸田武雄は、「青果を通して地元の活性化を!」と必死に動いた人です。当時は農協の職員として、地元の大根の生産農家さんや出荷業務に取り組んでいたそうです。
昭和49年に、より本格的に取り組むために会社を設立。名前には故郷の「泊村」(とまりそん。現在の湯梨浜町)から「泊」を使って、泊食品とつけられました。
鳥取の農業を元気づけ、鳥取の美味しいものを全国のたくさんの人々へと届けたい。
そんな愛情と情熱を持った人間でしたから、その想いはいつしか鳥取にとどまらず、地元色豊かな全国の漬物をお届けしようと各地の漬けものの卸売りに繋がりました。これが現在の「食品卸事業」の原点となっています。
少し余談になりますが、会社のある鳥取県鳥取市は日本海側にあり、昔は今とは比較にならないくらい雪が降る土地でした。雪は膝より上、腰くらいまで降り積もるのが当たり前。車はチェーンをしないと坂を登れないし、配達のトラックが峠で立ち往生なんてこともざらでした。
もちろん雪が降れば流通にも影響は出ますから、通常業務を行う前に社員総出で雪かき作業。当時は8時始業にもかかわらず、7時前に出勤して雪かき……なんてことも少なくありません。そんな時の先代の口癖は、
「鳥取以外は雪は降ってない。取引先は雪かきしてる間に仕事してるんだから、雪は仕事ができん言い訳にならん!!」
雪で荷物が運べないとか、雪かきしないと通れないとか、東京とか大阪の人には関係ない。いつもの時間にいつも通り発注を受けて、営業の電話をして、出荷してもらって、お店に荷物が届くことが当たり前。待っているお客様が電話の向こうにいるのだから。
この先代の精神は、今も強烈に残っています。
全国から鳥取へ、鳥取から全国へ
泊食品があるのは、日本一人口の少ない鳥取県。
そんな鳥取の小さな会社ですが、仕入れ先の漬物屋さんはありがたいことに300社を超えます。創業以来、50年以上のお付き合いになるメーカーさんもたくさんあるのです。北は北海道から南は鹿児島まで、各地の漬物屋さんから仕入れ、全国のスーパーの問屋さんへ送らせて頂いています。
今でこそ全国の漬物が集まる弊社ですが、そのネットワークが最初からあるわけではもちろんなく、初代が地道に各地をまわって繋いできたもの。今でこそ会社や商品をWEB上で調べることができますが、当時はまず会社の存在を電話帳で調べることがスタートなわけで。1件のお取引を始めることの大変さは、今と比べ物にならないことは想像に難くありません。
また全国各地へのお取引先開拓への出張も、鳥取からは高速もなく、下道を走っては地図を見て、また走ってはの繰り返しだったそうです。
そうして、まさに血と汗で積み上げた関係性はとても濃いものでしょう。昔から鹿児島のたくあんメーカーさんや和歌山の梅干し屋さんなど、実に色んな方が鳥取に来てくださり、社員も一緒になって宴会をしたことをうっすら覚えています。
お互いに代は変わりましたが、3代を経て、今なお変わらぬご縁があること心から感謝しかありません。
2代目はザ・フレンドリーな社長
さて、続いて先代の話です。もともとボクシングをしていて性格も破天荒だった祖父。ハードワークがたたったのか、60歳の頃から脳梗塞を何度も繰り返しました。それでも会社に出社しては社員の働く姿を見るのが生きがいだったのですが、とはいえ健康に不安があっては大変と、名古屋の電機メーカーから鳥取へ帰ってきた父(現会長)が婿養子として社長を継ぎました。それが約30年前になります。
専務だった母は、先代の血を色濃く受け継いだパワフルな人でした。
イケイケドンドンな感じで、卸売りもそうですが、自社商品の製造に関心を持ち、色んな商品開発をする人でした。専務は亡くなりましたが、今でも取引先の方から「あけみさんには本当に育ててもらった~」と言われることも多い、一度会ったら忘れられないゴットマザーです(笑)。
対照的なのが先代の社長でもある、現会長。とにかく穏やかでフレンドリー。初めて会った人にもすぐに懐に入る人です。持ち前の人懐こさで先代から受け継いだ取引先を広げていきました。
この二人が泊の「らっきょうメーカー」のイメージを作りあげたのです。35年以上前のことです。
きっかけはお客様からの声でした。全国の仕入れ先の商品を持って、問屋さんやスーパーさんへ商談へ行く中で、「鳥取から来たんなら、らっきょうないの?」と問われることが増えたのです。当時は産地として知られてはいたものの、地元のらっきょうメーカーはごくわずか。ニーズはある。そこに専務の商品開発の熱が加わり、会社としてらっきょう商品の製造が始まったのです。
らっきょうの時期になると農協の出荷場へ行って、洗いらっきょうや段ボールを運んでいたことを覚えています。
関金町(現在の倉吉市)の農家さんにもわさびを分けて頂くための直接交渉も行きました。そこから生まれたのが、今でも人気商品のわさび漬けです。専務は亡くなりましたが、研究ノートは今でもたくさん残っています。
そして会長も卸売りの取引先、仕入れ先を広げる一方で、自社商品をたくさん展開してくれました。勉強することが好きなのと、持ち前の陽気なキャラクター、いわゆるコミュ力おばけ的なその性格で、探求する、繋げることを続けてきてくれたことに感謝です。
父(現会長)とのワンカット
時代と共に、漬物も、私たちも変わる。
ここ30年ぐらいを眺めてみても、たくあんや梅干しが主流という時代から、今やキムチや浅漬けといった商品がスーパーの棚でもメインへ移りつつあります。普段漬物は買わないけれど、キムチであればコンビニでも買うという方も多い時代。辛味も抑えて、子どもでも食べられるものが増えてきました。
私たちの会社で取り扱う商品も大きく変化しています。漬物が主流というのは変わりませんが、いわゆる塩干商品(干物、しらすやちりめんじゃこ、明太子など)が伸びていますし、惣菜として自社加工の商品があり、さらにゼリーやあんこといった菓子や清涼飲料水の部門も製造しています。
また、青果売り場に並ぶものも取り扱いが大幅に増えました。スーパーにおいて漬物は日配。青果は近いようで大きく異なります。でも色んなご提案をさせてもらえて、受けとめて頂ける時代になったことを実感しております。
ある月の売上ベスト3に「ネギ」が入ってくるような月も。始めた頃は、こんなに取引が広がるとは会社の誰も思っていなかったのです。でも、そんな風に取り扱う商品が変わっても、全然変わらないこともあります。それを言葉にして、昨年、私たちのパーパスというものを掲げました。
地元鳥取の豊かな自然と食材、
そして日本の伝統食である漬物を中心に、世界中に、
美味しくて健康的な食を楽しむ喜びと笑顔を広げていきます
これまではビジョンとかパーパスとか掲げてこなかったのですが、私に代替わりをするタイミングで社員みんなで考えました。改めて自分たちらしさってなんだろうか。それがこちらのパーパスに繋がりました。実はこれまで名刺に小さく書いていた「美味しさと健康を追求する」というフレーズと同じ場所に着地しました。
結局のところ、創業者、先代から続いてきたものは、時代は変わっても変わらず私たちの中にあったのです。
ものを売る会社として歩んできた、これまで。そしてこれからは、このパーパスができて、私たちにもう一つ役目が増えました。それは売るだけでなく、「伝える」という大切な仕事です。
そのひとつが、「漬物を体験してもらう」こと。学校の授業やイベントとして一緒に漬物を作ったり、レシピをお伝えしたり。 少しでも食べる機会を増やしたいと思って開催させて頂いていますが、逆に私たちが教えて頂くこともたくさんあります。
うちのスタッフを連れて学校へ授業へ行くと、「小学生にらっきょうを教えても、小さい子は食べないんじゃないですか???」と心配していたスタッフがびっくりするくらい、子供たちがらっきょうを食べてくれることもあります。
家でも作ってみたとか、作ったものがなくなったからお店で買ったよとか、大人が思っている以上に子どもたちが受け入れてくれる間口を持っていること。いかに私たちがこれは「大人の味」「大人が食べるもの」という決めつけの目でいたのかということに、ハッとさせられるのです。
その一方で、漬物は伝統的なものであることも忘れてはいけません。食べ方だったり、その成り立ちや背景だったりも伝えていかないと、少しでも残していかないと、という気持ちに駆り立てられます。
農家さんや地域の方の努力を見ているからこそ、らっきょうメーカーの顔だけでなく、卸売の会社だけでなく。私たちも携わる者として発信する場を持ち続けていきたいと考えています。
雪が降ろうが、雨が降ろうが、夏の暑い日でも関係なく、人口の少ない小さな小さな鳥取県から、今日も美味しいものを探して、ご提案して、お届けする。今日まで続く漬けものづくりはお客様より賜りましたご縁のおかげです。これまでの50年がそうだったように、これからも一歩一歩お届けし続けていきます。
暮らしの中の伝統、ほっと一息つけるようなおいしさ、美味しい時間をこれからもお届けしてまいります。
鳥取から世界中へ。社員とともに
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