ライン川のほとりのカフェ
その日のうちに帰国便に乗る予定だった夫のマコトさんには、1つだけやり残したことがありました。
マユミさんが行きたかったというライン川のほとりにあるカフェに代わりに行くことです。
路面電車を乗り継ぎ、カフェに着きました。
「後ちょっとで、妻も来れましたね」
実はスイスに着いた翌日、医師との面談を終えた夫婦は、ランチをしにすぐ近くまで来ていました。
レストランでの食事を済ましてカフェにいく予定でしたが、体調がすぐれず、ホテルに戻ったのです。
レストランからその行きたかったカフェまで、歩いて数分の距離でした。
マコトさんはそのカフェで川を見つめながら、妻と最後に聴いたという『ピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章』をスマートフォンから小さな音で流していました。
母の旅立ちを経て
マユミさんが亡くなった後も、私は家族の取材を続けました。
娘たちに残された数年分のバースデーカード。エクセルに細かく記載されたやることリスト。娘たちのために用意したマユミさん直筆の料理のレシピ。
家族のことを最後まで考え、あらゆるものを家族のために遺し、マユミさんは旅立っていました。
月命日、家族はマユミさんの友人や会社の同僚を招いて、お別れ会を開催。
30人ほどが集まり、会場のプロジェクターにはマユミさんと家族の思い出の写真が映し出され、友人と同僚は涙ながらに追悼の言葉を送りました。
マコトさんの言葉で会を仕切り直し、立食でのパーティーが開かれると、皆朗らかな表情で、マユミさんとの思い出を語っていました。
「何かあったらいつでも相談してな」マユミさんのママ友が娘たちにそんな言葉を自然とかけていました。
この子たちには、支えてくれる大人がたくさんいるのだと知った瞬間でもありました。
これもまた、マユミさんの人柄あってのことです。
会社の上司はマコトさんに「女性陣の支柱になっていたんですよ」と言葉をかけていました。
亡くなる直前まで、やることリストをまとめるマユミさんの姿から、仕事での活躍ぶりを想像するのは容易いものでした。
妻が、母が、安楽死という選択肢を選んだことを、家族は隠そうとはしていませんでした。
そして、家族には笑顔が戻っていました。
安楽死という選択をした母を持つ10代の娘たちと対峙するのは、私も初めてでした。
だからこそ、彼女たちの表情を見て、安堵にも似た感情を覚え、帰路につきました。
2人の娘はそれぞれ、志望していた大学と中学に進学し、新生活の忙しさに追われていました。
きっとマユミさんも、母のことを忘れるくらい、自分の人生に夢中になってほしい、そう願っていたに違いありません。
それでも取材を続けると、自然と母の話が出てくる。
お母さんの旅立ちを家族は受け入れ、前へと進んでいました。
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