石橋貴明が文化人、ミュージシャン、タレント、アスリートなどジャンルを問わず“話してみたい”ゲストを迎え、焚き火の前でじっくり語り合うフジテレビ『石橋、薪を焚べる』。

6月16日(火)の放送は、ゲストに博多華丸が登場。地元福岡で15年活動し、周囲から「今ごろ?」と言われた35歳での東京進出や、ブレークのきっかけとなった番組の裏話、相方・博多大吉との関係を焚き火と石橋の前で語った。

『M-1グランプリ』も『爆笑オンエアバトル』も次点で 「あぁ!もう無理だ」

博多華丸・大吉は地元福岡で15年活躍したのち上京。当時、35歳での上京は「今頃?」と言われたそうで、東京の劇場でも、自分たちが周りを困惑させていたと振り返る。

石橋:15年福岡で(活動し)、『M-1(グランプリ)』(テレビ朝日)とか受けなかったの?

華丸:『M-1』が1年目の2001年、中川家が優勝した時は、僕ら行ってるんです。

石橋:ダメだったの?

華丸:ダメだったんです。次点、だったんです。

石橋:どっかで勝負できる場はなかったの?

華丸:あとは『(爆笑)オンエアバトル』です、NHKの。

石橋:それはどうだったの?

華丸:それも、良かったんですけど、チャンピオン大会ってあるんですよ。全国のベスト20でチャンピオン大会をやるんですけど、その時も次点で。21位で、出られなかったんですよ。それが『M-1』で落ちたときとかぶったんですよ。(『M-1』で)11位と(『爆笑オンエアバトル』で)21位やったんですよ。その年。

石橋:ことごとく、入らない。

華丸:入らないんですよ。手前なんですよ。「あぁ!もう無理だ」と思いました。その時は。

福岡吉本の後輩のブレークが東京進出を決意させた

上京を諦め「福岡でやっていこう」と思っていた華丸・大吉だったが、ある芸人のブレークが再び東京への思いを再燃させるきっかけになった。その芸人とは…。

華丸:「ヒロシです」です。

石橋:ヒロシくんが何?

華丸:ヒロシって福岡吉本の、6個下の後輩だったんですよ。

石橋:あ、そうなの!?

華丸:はい、当時、箸にも棒にもかからず、ほぼ逃げるように東京に行ったんですよ。

石橋:逃げるようにして(笑)?

華丸:東京で“ホスト”になって、『笑いの金メダル』(テレビ朝日)か何かがきっかけで、急にヒロシが売れ出したんです。

ある時、東京でブレークしたヒロシが福岡で凱旋ライブをした際、福岡時代には見たことのない大爆笑をさらった姿を目の当たりに。

「東京のフィルターを通すと、こんなに福岡の人は喜んでくれるんだ」と感じ、「じゃあ、一回東京に行って『エンタの神様』(日本テレビ系)とか、何かしらの東京の全国区の番組に出て戻ってこよう」と決意したという。

オーディションスタッフに「小学生の時見てた」と言われ「もう無理ばい」

石橋:それは、何かあてがあったの?行ったら確実に出られるっていう…。

華丸:ないです、ないです。

石橋:それ、ずいぶんギャンブルだね。

華丸:ただ、野球で言うと、リードはベースにすぐ届くくらいの環境で(東京に)行ってます。

石橋:セーフティーリードね!

華丸:ピッチャーがこちらを向いたら、すぐ博多(ベース)に帰る。

石橋:それ、盗塁する気ないじゃない!

華丸:ないです。だって福岡にレギュラー残してきましたもん。上京って言っても、そんなに上京じゃないんです。「ちょっとでも出られたら帰ろう」という気でいたんです。

ところが、どのネタ番組でも「35歳」という年齢が邪魔をした。

華丸:(番組は)まだ見ぬ原石みたいな、ピカピカの(芸人)が欲しいんですよ。それが、僕らはオーディションなのに、スーツ着ていったんです。面接みたいに。失礼があっちゃいけないと。

石橋:大人の対応だね。

華丸:日本テレビの作家の人か、演出の人か、福岡の人で。「僕、小学生の時見てたんですよ」って言われたんですよ。

石橋:(苦笑)。

華丸:「痛々しい」って(笑)。それで、「俺らもう無理ばい、この年じゃ」と言っていたときに、唯一、引っかかったのが、キャリア不問の「細かすぎて伝わらないモノマネ(選手権)」だったんです。

「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」の舞台裏

そこから話題は『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」の裏話へと展開。

華丸:(出演が決まった時は)「やった!」と思った。ドラクエで言う「会心の一撃」。本当にもう、テレビをご覧の皆さん知らないと思うんですけど、あの番組は(事前に楽屋に)挨拶に行けないんですよね。

石橋:そう。(僕らも)次に誰が出るのか、何人出るのか、一切知らされてないんです。

華丸:初対面が(本番の)あの場で、一人で。「初めまして」とご挨拶する前に、ネタをしなきゃいけないという、ものすごい緊張感。本当に「カイジ」なんですよ。わかりにくいかもしれないですけど、僕たちは地下にいるんですよ。で、とんねるずさんがいて、関根勤さんがいて、くりぃむしちゅーの有田(哲平)さんがいて。(「カイジ」の)いわゆるお金持ちの人たちですよ。

石橋:つまり、ゲームを勝ち抜いていくと。

華丸:そうです。そこに一人ずつ芸を見せに行くわけです。そのお金持ちが笑ったら、俺たちは「ラッキー!この地下から脱出できる」というような世界ですよ。

「これが最後の東京の出演」という緊張の中、長いタイトルを言う綱渡り

石橋:でも、本当にたま~に、あそこでガチガチの人いるよね。

華丸:ガチガチになるんですよ。だってテレビでしか見たことのないとんねるずさんに「次の方どうぞ」と言われて出ていって、顔を上げたら(目の前に)いるんですもん。真っ白になる気持ちはすごく分かります。で、また、僕は「これが最後の東京の出演」と思いながら行ったから、緊張感も半端じゃなかったです。35歳だったし。そのくせ、めっちゃ長めのタイトルだったんですよ。

石橋:(笑)。まさに甘噛みしろと言わんばかりの。

華丸:なんならちょっと(甘噛み)しましたね。タイトルが「児玉清さんが『アタック25』の最終問題の前にその日の成績をまとめるんですが、だんだん面倒くさくなり、投げやりになるところ」っていう。「なんでそんな難しいタイトルにしたんだろう」と思いましたもん。それを初めましての人たちの前で言うということが、めちゃくちゃ綱渡りなんですよ。「言えた!」と思ったら、(本番は)ここからということになるわけですから。

華丸は、当時のネタを再現して見せ、石橋を笑わせた。

石橋:(児玉清さんのモノマネで)優勝して。優勝したから賞金が出るわけでもないし、何もないんだよね。

華丸:はい。何もないです。

石橋:ただ、一夜にして、一気に人生変わっちゃう?

華丸:オンエアが10月くらいだったんですけど、そこから学園祭シーズンに突入するんですよ。学園祭でも今までウケなかったけど、児玉さんのモノマネだけ、めっちゃウケるようになったんですよ。そこからとんとん拍子なんですよ。僕ら1回も東京でバイトもしてないし、全然苦労もせず。あの「一撃」ですね。

石橋:じゃあ、あれに引っかからなかったら(今も)福岡で。

華丸:あの番組がなかったら、本当に、僕と、阿佐ヶ谷姉妹はいないです(笑)。

石橋:(笑)。

「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」を二連覇し、「R-1ぐらんぷり」でも優勝と、ピン芸でブレークした華丸。

石橋:お笑いでもスポーツの世界でも何でもそうなんだけど、回り始めるとすっごい勢いで雪だるま式でいい方向に回っていくよね。

華丸:はい。そうだと思います、本当に。まだ回ってますもん、僕ら。

石橋:15年も回ってるって、結構な回り方だよね。

辛かったのは、大吉がネタを書いていたので「あいつ(華丸は)モノマネだけ(しかないん)じゃない?」と思われるような、少しくすぶっていた時期があったと振り返る。

それを聞いた石橋は「でものちに2人の漫才を見たら、漫才が根本にあっての(モノマネの)ネタなんだということが視聴者はわかるんだよね」「だからいい回転が15年も続いてる」のだと評し「いいコンビだと思う」と感心した。

「華大」と最初に略して呼んだのはあの大物芸人

石橋:東京で売れて、テンション上がったことはないの?

華丸:皆さんに名前を覚えてもらうってのが一番大きくて。それこそ浜田(雅功)さんに、『ダウンタウンDX』(日本テレビ)に出たときに「華大(はなだい)は?」って言われたんです。そこめちゃくちゃ嬉しかったです。誰も言ってなかったです、僕らのこと「華大」とは。

石橋:(今は)「華大」って言うよね?

華丸:今でこそ、です。(そう呼ばれるようになったのは)40歳くらいになってからですかね。「華大は?」って言われた時、嬉しかったですね~。

華丸は「次の夢」を聞かれても「もうほとんど、十分なんですよね」と返答し、石橋から「本当に欲がないよね」と突っ込まれる。

それでも、最後に「欲しいものは?」と追及されると「ずっと欲しいと思っているのは…ゴルフの会員権」と明かしていた。