石橋貴明が文化人、ミュージシャン、タレント、アスリートなどジャンルを問わず“話してみたい”ゲストを迎え、焚き火の前で語り合うフジテレビ『石橋、薪を焚べる』。
6月23日(火)の放送は「ミシュランガイド東京」で13年連続で三ツ星を獲得している「レストラン カンテサンス」のシェフ・岸田周三氏が登場。料理に目覚めたきっかけや、フランス料理との出合い、チャンスを自らつかみ取りに行く半生を語った。
フランス料理とはこういうことか!衝撃の出合い
小学校の卒業文集に「料理人か食通になりたい」と書いていたという岸田氏。母親の影響で料理に興味を持ち、年に1~2回連れて行ってもらったフランス料理店で、「どうやってできているのかわからない」料理やレストランの華やかな内装に魅せられたという。
石橋:そのときは何を食べたんですか?
岸田:最初は、生牡蠣を食べたんです。
石橋:(笑)。牡蠣は、だって…。
岸田:そうなんです。生牡蠣ってただ剥(む)いただけじゃないですか。でも、そこにライ麦パンが添えられていたんですよ。丸いパンを横に5ミリ間隔でスライスしてバターを塗って、元の形に戻していたんですね。そうするとバターとパンが層になっていますよね。それを今度は縦に切ってスライスして出てくるんですよ。
スライスしたパンの間にバターが入っていて「何だこれ」とすごいびっくりした覚えがあるんですよ。“フランス料理とはこういうことか”と。何気なく添えられたパンにこんな仕事がされている…「フランス料理やりたいな」と思いましたね。
同期の上京に影響を受け、ようやくエンジンがかかった
専門学校を経て、19歳で三重県のホテルのレストランに就職。すぐさま頭角を現したのかと思いきや「むしろ劣等生」からのスタート。「遊びたい盛りでしたし、すごく緩かった」と振り返る。その岸田に火をつけたのは「同期の上京」だった。
岸田:同期に大阪で有名な料理学校を首席で卒業した子がいたんですよ。すごく意識が高くて、休みの時間や休みの日でも料理の本開いて勉強したりとか、フランス語の勉強したりとか、めちゃくちゃ頑張っていたんですよ。その子が、(三重のホテルで)2年ぐらい働いて「俺、東京に行くわ」ってジョエル・ロブションという店が東京にあるんですけど、そのオープニングスタッフとして行ってしまった。「大都会東京に行くんだ!?」と思って。
石橋:岸田少年は、その時は東京の「と」の字も(考えていなかった)?
岸田:「東京なんて怖くて行けない」みたいな、そんな感じの人間だったのに、同期の人間が話題の、これから間違いなく東京のナンバーワンになるというお店に行ったという衝撃を受けて、それこそフランス語の勉強とかも始めました。
石橋:やっと、ちょっと…。
岸田:自分の中で、ようやくエンジンがかかったという感覚で。成長スピードがようやく上がっていったという感じですかね。
「ここで働かせてください!」直感で頼み込むも撃沈
岸田氏は「東京のレベルとはどんなものなのか」を知るために休みを利用して食べ歩きを開始。東京のフレンチのレベルの高さに驚き、「東京で修業しなくては」と思うように。そして、食べ歩く中で「この店だ」と直感した店に出合い、その場で「働かせてください」と頼んだ。
石橋:そしたら?
岸田:断られました。
石橋:ははははは。ダメ?けんもほろろ?
岸田:「今は定員いっぱいなので、諦めてください」と。とぼとぼ三重県に帰りましたね。でも忘れられなかったので、何ヵ月か経ったら「もしかしたら誰か辞めているかもしれない」と思って、電話をするんですよ。
確か、当日と2ヵ月後と断られたんですけど、3回目の電話をしたらシェフが「2ヵ月後に欠員が出るので、その時だったら面接してあげる」と言ってくれたんです。電話を切って、すぐに退職届を出しました。
2ヵ月後の面接で、すぐに働ける状態にしておかなければほかの人に決まってしまうかもしれないと考えた岸田氏。面接日前には引っ越し会社に申し込みを済ませ荷物を預かってもらい、執念で合格を勝ち取ったその足で不動産店に行き、即入居可能な物件を決定。再び引っ越し会社に連絡し、荷物を運んでもらった、というエピソードを披露。その行動力に石橋も驚いた。
東京はレベルも厳しさも段違い…職人の世界だった
石橋:やっぱ東京はレベル違いました?
岸田:レベルも違うし、厳しさが段違いでしたね。職人さんの世界ですから。
石橋:(笑)。僕も高校卒業して、一回ホテルに就職したんです。ホテルオークラのレストランで(自分の)同期が厨房に入っていたんですよ。そこで「君は何をやってるの?」というくらい、一日中鍋洗ってましたよ。
そこから、厳しい世界から抜けていくためには(何をすればいいの)?
岸田:結局、鍋洗うこと一つにも、要領がいいとか、仕事ができるというのが見え隠れするんです。そういうのが見えた人には、「一回彼を試させてください」とか「試してみようよ」という声が出るんですよ。
石橋:鍋を洗うということにも、仕事の早さといったことが…。
岸田:絶対、モチベーションだとか要領の良さが見え隠れするんで、そこでチャンスをつかめる人とつかめない人に分かれるんですよね。
石橋:岸田周三は、どうやってチャンスをつかんだの?
岸田:僕は、鍋を洗うんだったら全力で洗ってましたよ。「誰よりもきれいに磨いてやろう」とか、「誰よりも早く終わらせてやろう」という感覚は持っていたし、それを誰かが評価してくれたんでしょうね。
石橋:じゃあ、かなり東京の店ではポンポンポンポン(上がっていった)?
岸田:いやいやいや、東京はとんでもなく厳しくて、びっくりしました。また一からやり直しですよ。
寝る間も惜しんで「鬼のように厳しい」先輩たちの下で怒鳴られながら働いていたという話に「よく心が折れなかったね」と石橋。すると、「心は折れなかった」が、出血性胃潰瘍になったと明かした。
石橋:胃に穴が?
岸田:結構ひどかったみたいですね。びっくりしましたけど。
石橋:それはやっぱり、精神的なものと、肉体的なものと。
岸田:「どっちですか?」と(医師に)聞いたら「たぶんどっちもでしょ」って言われて。それくらいハードな職場でした。
石橋:でも、そこで頑張ってステージ上げて?
岸田:職場に「2週間もお休みいただいてすみませんでした」と戻って、ちょっとは優しくしてくれるのかなと思うじゃないですか?全然してくれないです。その日から、ガンガンきて。「この人たち鬼だな」って思って。「絶対に、この人たちより上に行こう」と心に決めましたね(笑)。
反対を振り切って修業のためにあてもなく渡仏
「30歳までにはシェフになりたい」と目標を立てていた岸田氏は、3年ほどフランスで修業したいと考えていたため、26歳までには渡仏したいと考えていた。ところが、シェフに反対されて…。
岸田:「お前はまだここに残ってやることがある」と言われつつも、辞めたという感じです。
石橋:何かあてはあったの?フランスで。
岸田:何にもないんです。シェフが大反対をして、それを振り切って辞めちゃったので、紹介もしてもらえなかったんです。結局(あては)何もないんですけど、何もないから(フランスに)行かないという選択肢はなくて。それをやっていると、いつか運よく紹介してくれる人に出会えるまでフランスに行けない計算になるじゃないですか。そうするともう、自分の目標にたどり着かないんで。
石橋:30歳がどんどんどんどん。
岸田:遠退いていくので、もう行こうと。片道のチケットと気合いだけ入れて行きました。
石橋:お金は貯めてたの?
岸田:30万くらいですね。
石橋:さ、30万!?
「僕にとっては、結構大金。それが限界」と笑った岸田氏。東京で感動したように、パリでも「肉の焼き方が感動的に素晴らしい」と感じた店「アストランス」と出合い、その場で「今すぐ働きたい」と申し込んだが…。
岸田:断られたんですけど、それも。
石橋:また2ヵ月後になったら空きが出るかもしれないよ、みたいな。
岸田:はい、やっぱり何度か電話して。どうしても絶対に働きたい店じゃないと働きたくないじゃないですか。どの店に入っても厳しいのは厳しいんですよ。でも働きたい店だったら我慢できるし、頑張れるじゃないですか。
石橋:どうやって突破したの、それは。
岸田:それは1回諦めて、ほかの店で働きながら、でもこれからもこつこつ電話するぞという覚悟で。
その後「アストランス」で働いている日本人と仲良くなり、彼が夏休みで日本に帰る際に1ヵ月だけ研修生として働かせてもらえることに。
岸田:1ヵ月間、一生懸命働いたんです。もう、東京の時のような、それを超えるような、鬼気迫る感じで。何とか認めてもらいたいと。
石橋:睡眠時間をまた、1時間くらいにして?
岸田:はい、もうちょっと(睡眠時間は)あったんですけど、誰よりも先に行って、シェフが必要だろうというものを前もって全部用意しておくんですよね。そうしたら、1ヵ月経ったら「雇ってくれる」って言うんですね。「雇ってくれるんだ、うわ、すごい」と思って。
石橋:それはいくつのとき?
岸田:28かな。
石橋:おーっと、あと2年?
岸田:そうです、あと2年しかないというのはあったんですけど。フランス料理は“火入れの料理”と言われているんですね。加熱の料理。日本の料理は、結構生食のものが多いじゃないですか。それに対してフランスの料理は、基本的に全部過熱をするんですよ。「アストランス」という店で修業したんですけど、そこの火の入れ方がどうしても学びたくて入ったんですけど、それが本当に難しかったですね。
石橋:え、何が違うの?
岸田:それは、感覚なんですよね。
シェフと同じ火加減、同じ時間で料理を再現しても「ダメ」と言われ「お前のやっていることはロボットと同じ」と評されたという。料理の仕上がりを同じにするために、その日その時の素材の状態を見て、細かい調整をするのが料理人だと教えられた。
岸田:おかげで1年後に「お前、今日からスーシェフだ」って言われたんですよ。
石橋:つまりナンバー2?
岸田:すごくうれしかったですね。めちゃくちゃうれしくて。日本人でも副料理長にさせてもらえるんだって。
岸田周三の店でしか食べられない料理で世界からお客さんを呼びたい
そのままパリで勝負するという選択肢もあったが、岸田氏は「コピーじゃなくてオリジナルのものを作りたかった」ため日本へ帰国。
岸田:東京にしかない、この岸田周三の店でしか食べられない料理というものを作って、世界からお客さんを呼びたい。東京じゃないと食べられないものを作りたいんです。
石橋:東京発信しなくちゃだめだと。
岸田:そうです。それが、僕が一番やりたかったことで。1年後に東京に帰ってきて、今のお店の前身となるお店を作ったということですね。
帰国後に始めた岸田氏の店「レストラン カンテサンス」は、2007年に三ツ星を獲得する。
岸田:当時は、僕が一番びっくりしていましたよね。
石橋:星を獲っちゃったら最後、下げることは許されないでしょう?
岸田:そうなんですね。ハードルも上がるじゃないですか。「三ツ星とはどんなもんじゃい?」という人たちがいらしたし。「カンテサンス」を始めてから今14年経つんですけど、最初の7~8年くらいは、睡眠時間が本当にないくらい働いていて、大変な時期でしたね。「次はどんなことをやらなきゃいけないんだろう」というプレッシャーで。
石橋:また胃に穴が開いちゃうような?
岸田:そう、そんな感じでしたね。
世界進出は「絶対にやりたくない」岸田が日本にこだわる理由
東京から世界に進出しないのかという問いには「絶対にやりたくない」と即答。「僕は日本が大好き」と言い、日本ほど発注した食材が時間通りに届く国はない、「その日に獲れた新鮮な食材を使いたい」という岸田氏の料理は「日本じゃないとできない」と語った。
料理のアイデアについては「絞り出すような感覚」で生み出しているといい、素材を生かす調理については「この調理法はダメ…」と消去法で絞っていき「あとはトライ&エラー」で自分の納得のいくものを出していると明かした。
また、料理を好きになるきっかけを与えてくれた母親にミシュランを獲った後に報告し「あれがあって、ここまでになれました」と感謝を伝えたエピソードも。
最後に「仕事を頑張りすぎた」という岸田氏が「この人生中に、一回は結婚したい」と明かすと、石橋は岸田氏が独身なことに驚きつつも、「火入れ」の話を引き合いに「女はもっと難しいよ~(笑)」とアドバイス。すると、「なんとなく、そうなんじゃないかと薄々感じてました」と岸田氏も納得していた。