エッセイ漫画「大家さんと僕」シリーズ(新潮社)が累計120万部を突破、第22回手塚治虫文化賞短編賞を受賞したお笑い芸人の矢部太郎が、最新作「ぼくのお父さん」(新潮社)を刊行。
刊行を記念して行った千原ジュニアとの対談記事はこちら!
矢部の父は、絵本作家のやべみつのり氏。本作は、40年前の東京・東村山を舞台に、子煩悩で風変わりな絵本作家の「おとうさん」と5歳の「ぼく」の日々をユーモラスに描いた自伝的家族漫画だ。
おっとりとした口調で丁寧に言葉を選びながら話す矢部に、ほのぼのとしてちょっと切ない作品世界に込めた思いを聞いた。
<矢部太郎 インタビュー>
――2年ぶりの新刊が刊行される今のお気持ちは?
うれしいですね。また本が出せて、みなさんに読んでもらえる。読者の方に手に取ってもらえる喜びはもちろんですが、前に本を出したときに応援してくれた書店員さんや、本を描いたから会える人たちに、また会えるかもしれないのもうれしいです。
――前作では、階下に住む88歳の大家さんとの交流が描かれましたが、今回「ぼくのお父さん」を描こうと思ったきっかけは?
あるときお父さんから、「『大家さんと僕』の次は、『お父さんと僕』を描いたら?」と言われたんです。僕としても、大家さんぐらい変わり者で面白くて魅力的な人といったら、ベクトルは全然違うけどお父さんもそうだよな…と思ったのが始まりです。
その頃、「大家さんと僕」の取材で子どもの頃の写真をくださいと言われることが多くて、実家に連絡して送ってもらったんです。そしたら、思った以上にでかい箱が届いて。その中に、僕が子どもの頃に描いた絵や、お父さんが作ってくれたおもちゃがどっさり入ってたんですよね。
――これ全部、お母さんが取っておいてくれたんですか!?
全部父が。お母さんは逆に、「もう捨てたい…」っていう感じで。ずいぶん綺麗にとっておいたなと思います。
――5歳の頃のエピソードを本当によく覚えているなと感じましたが、こういうものからヒントを得たのですか?
実は、お父さんが描いてたノートがたくさんあって。自分の記憶をたどって描いた回もあれば、ノートをもとに描いた回も多いんです。ある意味、お父さんが作品にしていなかった作品のカケラというか原石を、勝手に僕の解釈で作品にしたというのが大きいかもしれない。それは、僕の目線が加わることによって、できたことなのかなとも思います。
――矢部さんも小さい頃からもの作りが好きだったのですか?
お父さんがそういう人だったから、絵を描いたり工作するのを近くで見ていたし、いつも一緒にやっていました。漫画も家にいっぱいあって、昔の漫画雑誌の「ガロ」を読んだり。つげ義春さんの「無能の人」なんかは、「ぼくのお父さん」の世界とも近いなと思う。あれを現代っぽく描きたいな、という思いが頭のどこかにありました。
――作家として、お父さんに一番影響を受けたのはどんなところですか?
単純に絵の描き方を、見て知っていったというのはもちろんあるんですけど、そういうことよりも、誕生日のプレゼントとかもいつも手作りで、お父さんが描いた絵本やゲームだったことですかね。
当時は、お店で売ってるファミコンやウルトラマンのほうがいいなーと思ってましたけど、今思えば、それを用意しているお父さんが一番楽しそうでした。おもちゃを買うお金もないし、なにより「これをあげたい、作りたい!」っていう気持ちだったんでしょうね。木のブロックなんて、危なくないように一個一個面(めん)取りしてて、本当に手が込んでる。たぶん何日もかけて作ったんだと思います。
一緒に作ったりすることが、お父さんにとっても僕にとっても喜びだったし、それを見たり感じたりするうちに、売ってるものを買ってくるだけでは届かない喜びに、たどり着けることがあるんだな…というのを知れたというのが、自分のもの作りの原点になっているような気がします。
――「お父さん」が「ぼく」とする遊びも、おやつ代わりにつくしを摘んで調理して食べたり、河原で土器を焼くなど、田舎のおじいちゃんおばあちゃんが教えてくれそうなことですよね。
つくし採りはホントによく行きましたが、お父さんのノートを見たら、僕の記憶以上に採りに行っていて(笑)。クラスのほかの友達がしてたとは思えないですね…。きっと、そういう現代っぽくない生き方を目指してたんだと思います。
――矢部さんから見たお父さんの魅力は?
ずっと好きなことをして、人と違う道を自ら突き進んでる感じがするところですかね。絵を描くのも、大人になったらみんなあまりしなくなることですし。とにかく働いてた印象がなくて、毎日が日曜日みたいな感じだったのも、漫画にするにはもってこいでした。
――「お父さん」のユニークさが伝わってくる一方で、なかなか絵が描けない苦悩がにじむシーンもあります。作家の生みの苦しみを、矢部さんも子供なりに察していたのでしょうか。
それはすごく感じました。大変そうだなぁ、悩んでるなぁって。畑をつくったりいろいろしてるのも、仕事からの逃避なのかなーっていう。それは一冊を通して残したかった印象でもあって。
そういう意味では、絵本作家と言っているけど、そんなに絵本を描いてない人の話、みたいなものが描きたかったかもしれないです。
「多くの人に受け入れてもらえたのは、芸人としての認知があったから」
――ご自身は、どういうときに筆が進むのですか?
締め切りがくるなぁっていうときに(笑)。締め切りがないと描かないと思います。
――意外ですね。
僕、仕事以外で絵や漫画を描いたことはなくて、仕事だから描くという感じ。そこがお父さんとまったく違うところです。
「大家さんと僕」も、大家さんとカフェにいるときに偶然会った知り合いの漫画原作者さんに、「(二人の関係が面白いから)描いて見せて」と言われたから描いたんですけど、言われなかったら描いていなかったですし。
絵本の挿画や書籍のカバーイラストなどの仕事も、初めてやっていることが多くて。させてもらっといて申し訳ないですけど、全部が練習みたいな感じで…。今回、カラーで描いたのも初めてで、描きながら練習してるみたいなところはすごくありました(笑)。
でも、仕事ってそういうものかもしれない。やったことのない仕事が来て、やってるうちにできるようになるみたいな。
――大まかな構成は、事前に組み立てるのですか?
そうです。「大家さんと僕」のときもそうでしたが、一冊の構成を最初に立てて、大まかなネーム(絵コンテ)をざっと書きます。で、その月の締め切りが迫ってきたら、それをもうちょっと深掘りして具体的に描きながら清書するっていう感じですね。
――依頼があるから描くとはいえ、やりたい、描きたいと思って描いているのですよね?
そうですね。頼まれたものの世界観の中で、自分がやりたいことを考えるのは好きです。今回、カラーで描いたのも、白黒で描くことにある程度慣れてきて、パターン化されてきちゃったなと思ったのが始まりで。
カラーだったらまだやったことがないから、もうちょっとまっさらなところから試行錯誤できるかなと思ったんですよね。やったことのない技法や描き方に挑戦することで、描くことを楽しみたいって思ったのかな。
――描きながら心がけていたことはありますか?
締め切りを守るというのと、みんな疲れてると思うから、疲れていてもスッと読める優しい漫画がいいなぁと思っていました。描いてる間にコロナもあったし、あまりズドーンと重くなるものを描こうとはしていなかったと思います。
――どの世代の人が読んでも、自分の子供時代がよみがえり、ノスタルジーに浸ったり、癒されたりしそうですね。
癒されると同時に、子供時代は絶対に戻ってこないし。それはある種、悲しいことでもあると思うので、そういうことが両方描けていたらいいなと思います。
――「大家さんと僕」の続編を描かれたときも、「ユートピア漫画にはしたくない」と編集さんにきっぱりおっしゃったとか。
子供時代の輝きも、絶対終わるものとして描いたほうが、はっきり輝くかなと思うんです。ずっと続く感じのものよりも、もうないものなんだというほうが、尊い感じもするし、大人には沁みそうですよね。
ただ、僕自身は、完全に他人の話として描いています。そのぐらい距離を置いて向き合わないと、恥ずかしくて読んでいられないですよね(笑)。子供時代の話は特に。
――「大家さんと僕」が世に出て以降、絵の仕事がどんどん増えていますね。
芸人の仕事は、今は延期になることも多いので。そういうときに、絵の仕事があるのはありがたいなと思います。
――「大家さんと僕」で手塚治虫文化賞短編賞を受賞されたとき、選考委員の里中満智子さんに、「なんで最初からこっち(漫画の世界)にこなかったの」と言われていましたが、そうしなかったのはなぜですか?
僕は、圧倒的に絵がうまいわけでもないし、そんな自分が漫画や絵の世界で、ゼロベースで勝負するのはすごく大変なことだと思うんです。こうして多くの人に受け入れてもらえたのは、芸人としての認知があったから。100m走でいえば、僕はけっこう走った地点からスタートさせてもらってると思うんですよね。
あと、お父さんを近くで見てて、やっぱり大変そうだったから、自分には無理だなぁみたいな。あれぐらい個性的な人じゃないと無理なんじゃないかなと思ったし、お父さんがあんなに苦労しているものを自分はやりたくないなって。そういうふうに見えていたかもしれないです。
――お笑いの仕事は今後も続けていかれるのですか?
やめる必要もないですし、僕は芸人をあまり“職業”という感じでとらえてなくて。詩人とか俳人と同じような感じかなと思ってるので、やめるって何なんだ?って思いますかね。
――お笑い芸人のご自分も、作家のご自分も、自覚するまでもなく当たり前のものとしてあるということでしょうか?
あえて言うなら、今日みたいな取材を受けるときに服装を変えるぐらいで。このジャケットは、ルミネの劇場(ルミネtheよしもと)には着ていかない服です。これを着ていったら、ほんこんさんにいじられると思う(笑)。
――ほんこんさんをはじめ、いい先輩方に恵まれていますね。
ああ、そうですね(破顔)。みんな面白いし、相手を気遣う人が多いし。それは芸人をやめない理由のひとつかもしれないです。
――改めて、創作の原動力は何ですか?
「描いて」と言ってくれる人がいることですかね。お笑いもそうです。たとえばほんこんさんが、ご自分が座長でやられるルミネのスペシャルコメディに「矢部、出て」と言ってくれるのはすごく嬉しくて。「よっしゃー!出るぞ。頑張るぞー!」という気持ちになるので。
――今後、一番やりたいことは?
「週刊新潮」の表紙を描きたいです!…でもこれは、4、5年言い続けてまったく届かないので、そろそろ変えようかなと思ってます(笑)。お父さんみたいに、何も描かないで畑をやるのもいいかなとも思います。
一番やりたいこと…なんですかねー…でも、なんかもういっかな、みたいな気持ちもあります。すごくいいことがいっぱいあったし、たとえ今死んだとしても悔いはないというか。
そう考えると、一番の原動力は、自分もいつか絶対死ぬから、死ぬまでにできることをやるしかないなという覚悟ですかね。今後もそれを、地道にやっていくんだろうなと思います。
取材・文/浜野雪江
<やべみつのり氏 コメント>
親バカですが、よく描けているなと思います。
自分で言うのもなんですが、つくづくへんな「お父さん」ですね。高度成長期に「全力でのらないぞ!」という気合いを感じます(笑)。
自分の好きなことを、子どもと一緒にやっていたなあと改めて感じました。僕自身が子どもと楽しみながら、生き直していたように思います。子育てをされている皆さん、子育てを楽しんで、子どもから学んでください。子どもはみんなおもしろい!
マンガとしても、シンプルななかにポエジーがあって、読者に想像する余地を残していていいなと思いました。幼い息子視点で父親のことを描いたのもユニークなんじゃないかな。お父さんの帽子は、電気スタンドのカサみたいで、ちょっと変だけど(笑)。
締め切りを守らず編集者を困らせているところなどは今も変わっていないので、太郎は成長して活躍しているようだけど、僕自身は成長していないなあ。
<やべみつのり氏 プロフィル>
1942年生まれ。絵本作家、紙芝居作家。絵本に「かばさん」「あかいろくん とびだす」、「ひとは なくもの」(共著)、紙芝居に「かめくんファイト!」「かわださん」などがある。96年に第34回高橋五山賞奨励賞を受賞。