さまざまな世界で活躍するダンディなおじさまに、自身の半生を語ってもらう「オヤジンセイ~ちょっと真面目に語らせてもらうぜ~」。

年齢を重ね、酸いも甘いも経験したオトナだからこそ出せる味がある――そんな人生の機微に触れるひと時をお届けする。

今回は、黄色いタキシードで人差し指と親指を立てた「ゲッツ!」のギャグでおなじみの芸人・ダンディ坂野が登場。1967年に石川県加賀市で生まれ、24歳のときに芸能界への思いを諦められずに上京し、お笑いの養成所へ。そして36歳のときに「ゲッツ!」で大ブレイクを果たした。

「一発屋」の代表格として表に出ることも多いダンディ坂野だが、「これが僕の生きる道、やれることをやるだけ」と悠然とほほ笑む姿に悲壮感はない。

芸能界を目指したきっかけとなる田原俊彦への熱い思い、アメリカのコメディアン風の芸風を確立させるまで、そして新たに挑戦している音楽制作やYouTubeでの活動について。「一発屋」と言われながらも20年間にわたり「ゲッツ!」を貫き、これからも「ゲッツ!」で生きていくと宣言するダンディ坂野のジンセイを前後編で紹介する。

田原俊彦に一目惚れ!地元で就職するも「これしかない」と24歳で東京へ

テレビの民放が2局しか入らない石川県の田舎で育ちました。当時は夜になると歌番組やドラマが主流で、小学校6年生くらいから思春期に向かっていく中で80年代のアイドル全盛ブームにハマりました。お小遣いのほとんどをレコードや、「明星」「平凡」「近代映画」といったアイドル雑誌に費やしていましたね。

80年代のアイドルブームに触れているうちに田原俊彦さんが現れた。もう「これだ!」と一目惚れでしたね(笑)。“かっこいい”のか“かわいい”のか、どの表現が当たっているのかわからないけれど、たぶん僕が女性だったら熱狂的な追っかけファンになっていたと思います。まあ男でも隠れファンの方も多かったと思うんですが。

「たのきんトリオ」(※)の人気はすごくて、大多数の人がマッチ(近藤真彦)派とトシちゃん派にわかれていた印象です。男性は硬派なタイプのマッチ派の人が多かったんじゃないかな?でも僕は、近藤さんにはないフワッとした田原さんの魅力、見た目がスーパーアイドルなところとか…もう僕の人生これしかないという感じで、小学校高学年からずっと田原さんに憧れを抱いていました。

(※)1980年代前半に活躍した、田原俊彦、近藤真彦、野村義男の3人のジャニーズ事務所に所属するアイドルグループ。3人ともソロとしての活動が主だった。

そして高校生になるとだんだんと芸能界への憧れが出てきました。卒業後の就職先を考えたときに、東京に行きたい気持ちはありましたが、何の伝手(つて)もないので地元で働きはじめました。でも、「やっぱりチャレンジしたいな」という気持ちが強くなっていった。

僕が24歳になった頃、漫才ブームの後で各芸能事務所がお笑いに力を入れようかという時期で、「月刊デ☆ビュー」というオーディション情報雑誌に、「お笑いのレッスン生募集」という養成所の募集記事があったんです。レッスン生として合格すれば東京に行く名目ができる。それがお笑いの養成所に入った経緯になります。トシちゃんになりたかったけれども「とりあえず芸能のことを」と、お笑いの世界に入りました。

アイドルに憧れたはずがお笑い養成所へ…アンタッチャブルに受けた衝撃

「好きな人と駆け落ち」ではないですけれど、田原さんに憧れてなりふり構わず東京に出てきちゃったみたいな感じですね、行かなきゃ始まらなかった。当時、とんねるずさんが歌も出して、芸人が歌番組の『ザ・ベストテン』(TBS系)でそうそうたるメンバーと一緒に座っているという状況を見て、「時代はお笑いだ」とも思っていました。トシちゃんになりたかったけれどもなれないのなら、お笑いで何とか近づけたらという思いがありました。

養成所では、人前で自分が作ったネタを発表するということはこんなに大変なものなのかと、シャイな田舎の少年は悩みました。少年といっても24歳でしたけれども(笑)。1年目はコンビで漫才をやっていて、注目されたいという理由でボケ希望だったんですが、ツッコミ担当でした。そして、少し授業料を払えば2年目もいてもいいよと言われたので「います」と言って養成所に残ることに。何とかしがみつかなければいけなかったので。

養成所の1年後輩にアンタッチャブル(柴田英嗣・山崎弘也)がいましたが、山崎を見たときに「ああ、こういう奴が売れるんだろうな」って思いましたね。根は真面目で、しゃべり出すと面白さがあふれ出るような感じだった。山崎を見ていると、“アイドル憧れ”で東京に出てきて、ラッキーパンチを当てようと思ってる自分とは全然違うぞと思い知りました。

芸人活動と並行したバイトではマネージャーにまで昇格…「ゲッツ!」の芸風ができるまで

東京に出て来てからは芸人活動の傍ら、ずっとマクドナルドでアルバイトをしていました。真面目に働いていたのでマネージャー(アルバイトの時間帯責任者)にまで進み、腰に鍵もぶら下げていました。店長や社員さんにはお笑いをやっているというのは伝えてあって、素行が悪いと突然スケジュールが入ったときに融通をきかせてもらえないから、頑張って良い人として働いていました。そういうところは僕の賢いかなって思うところです(笑)。

2年目の後半からはピン芸人になりました。1人でやるんだったらできることしかできない。地味なスーツに蝶ネクタイで、アメリカのコメディアンチックな感じにして、今のダンディー坂野の原型はその頃にできたと思います。

田舎にいるときにレンタルビデオ店でバイトをしていて、そこでアメリカのコメディ作品をテープに傷がついていないか確認する名目でよく見ていたので、アメリカのコメディアンの芸風が自分の中にあったんでしょうね。見ている側が面白がってくれるといいな、注目を浴びればいいなという思いで作ったのがあの「ゲッツ!」の芸風です。

バイトをしながら、ライブには月に10本ぐらい出させてもらっていて、そうしているうちに『爆笑オンエアバトル』(NHK)の第1回目の収録に呼んでいただきました。これ僕の中では1番の自慢話なんですが、そのときにアンジャッシュ(児嶋一哉・渡部建)が落ちて僕が受かるということが起こった(笑)。まあ、そこからアンジャッシュは勝ち続けて初代のチャンピオンになるんですけれども。

念願だったアイドル並みの忙しさと田原俊彦との共演

徐々にテレビに出られるようになっていった頃、「マツモトキヨシ」のCMに出させていただきました。『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)の「笑わず嫌い王決定戦」というコーナーに出させてもらったのもその頃です。忘れもしません、『めちゃイケ』に出たその場、スタジオにいるときにスケジュールが埋まっていったんですよね。一気に流れが始まったなっていう感じがありました。

でも、やっぱり自分としては歌がやりたいという気持ちがあった。自分で書いた歌詞に曲を当ててもらった「OH! NICE GET’s!!」(2003年)という曲で、音楽番組の『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ系)や、『うたばん』(TBS系)にも出演させてもらいました。『うたばん』では、石橋貴明さんと共演できてうれしかったですね。

当時は絶え間なくテレビに出て、取材をやって、番組用のアンケートに答えて、リハーサルをやって…深夜の1時、2時にヘロヘロの状態で帰宅して、4時、5時に起きて羽田空港に6時に行かなきゃいけないというような毎日でした。念願だったアイドルの全盛期並みの忙しさを体験したと思いますが、36歳のおじさんにはつらかった。毎日ヒーヒー言っていました。

それでもうれしかったのは、やっぱり田原さんに会えたこと。『歌のトップテン』(日本テレビ系)という番組に出演したときに、田原さんの楽屋が僕の楽屋の近くだったんです。田原さんの楽屋に収録が始まる前に挨拶に行ったら、こう座ってまして(足を組む動作)、「わー!トシちゃんにやっと会えた」ってうれしくて。でもあんまりガーガーと会話をしないようにと気をつけて、会えてうれしい気持ちだけを伝えました。顔はじっくり見ましたけれども(笑)。

もし自分が思い描いていたトシちゃんと違ったら?女性だったら憧れの王子様が自分の描いていた感じと違っていたらどうしようという気持ちになりますよね?でも実際の田原さんは素敵でした…。ジャニーズ事務所を辞められた時期でもあったので、「俺もがんばるからお前も頑張れよ」みたいなことを言ってくださったのを覚えています。その後も2回ほど共演させてもらいました。

【思い出の品】CMで着用したタキシード

「2002年、僕が初めて黄色になったマツモトキヨシさんのCMで着たタキシード。当時は子どもたちがあちこちで『ゲッツ!』をマネしてくれていて、『あの黄色いゲッツの人は誰?』となったところに、ゴールデンタイムのバラエティ番組で顔が売れて一気に『ゲッツ!』が世間に広まった感じがします」

ダンディ坂野のジンセイ。後編ではブレイクしてからの心境、「一発屋」と呼ばれても腐らずに活躍し続けられる理由、今後の夢について語る。そしてあの憧れの姿にも変身…!?

ダンディ坂野公式Youtube

ダンディ坂野公式Twitter

<NEWS!>

大石まどかデビュー30周年記念シングル「茜の炎」(8月4日発売/日本コロムビア)収録曲「愛が生まれた日」にて、ダンディ坂野がデュエットを披露。

撮影:河井彩美