中村七之助 人生で一番演じた「連獅子」への思い「父親に喜んでもらうため、死ぬ気で勤めた」<完全版>
12月24日(金)放送『密着!中村屋ファミリー 父から子へ…受け継がれる「連獅子」 涙の猛稽古SP』
中村七之助が、中村屋一門の1年を振り返った。
12月24日(金)、フジテレビでは『密着!中村屋ファミリー 父から子へ…受け継がれる「連獅子」 涙の猛稽古SP』が放送された。
2021年、さらなるコロナ感染拡大に苦しみながらも、伝統が父から子へと継承される瞬間を捉えた「連獅子」や、コロナ禍でエンターテインメントを求める観客に応え実現させ若者たちの喝采を浴びた「コクーン歌舞伎」など、ファミリーが一丸となってまい進する中村屋一門の1年を追った。
番組から、中村七之助のロングインタビューが到着。番組未公開分を含むその談話を紹介する。
<フジテレビュー!!の『密着!中村屋ファミリー 父から子へ…受け継がれる「連獅子」 涙の猛稽古SP』関連記事>
<中村七之助 インタビュー>
——「二月大歌舞伎」の「奥州安達原(おうしゅうあだちがはら)」(※)に向けた、長三郎さんとの自主稽古はいかがでしたか?
(※)甥の長三郎と母娘役の共演となる「奥州安達原 袖萩祭文」に出演した。
お君ちゃん(長三郎)は、あの作品が時代物の中でも重厚なもので、しかも幕が開いてから閉まるまで舞台上にいるというような役でして、子役であそこまで長い時間やる役はあまりないんじゃないかなというくらいの演目でした。
長三郎は、あのときまだ7歳で、いきなりだったでしょう?「実盛(物語)」でもお芝居出てますけど。歌舞伎座で女方を演じるのは初めてでしょう。
最初に聞いたときはすごく不安でした。学校に行きながらの出演になるので「長丁場だし、大丈夫かな」と。時間的な慣れってあるじゃないですか。だから、1月には、学校から帰ってきた頃に僕が兄(中村勘九郎)の家に行って、開演と同じ時間帯に家で稽古をやったりしました。
私が、目の見えない不自由な役(袖萩)だったので、お君ちゃん(長三郎)は芝居をしながらも、僕の世話をいっぱいしなくちゃいけない。大変だったと思います。
——歌舞伎座に入ってからの稽古はどうでしたか?
自主稽古のときは、例えば義太夫だったり、ほかの方が喋っている、そういうところはかいつまんでやっているんですよ。通し稽古のときは、丸々いなくちゃいけない。「集中力が続くかな?」という心配はありました。
ただ、私が花道から出ていくときにお弟子さんが杖やものを渡してくださったりするんですけど、誰が教えたわけじゃないですが、2日、3日くらい経ったときかな…役者としての自覚が芽生えたのか(長三郎が)自らやり出したんです。
やりたくなったのか、お客さまから見えていない部分で「僕がやる」と言って。これには、びっくりしました。お塩を出すんですけれども、「全部自分がやる」って。この年でも、そういう気持ちになるんだな…これは、すごいことだと思いました。
子どもだから、花道に出るまでは馬鹿話しててもいいわけですよね。元々明るい、ああいう性格なので、ふざけていても許されるんですけれども…「ああ、役者なんだな」って。
——(中村)福助さんも、稽古に来てくださって…。
いやもう、私は福助の叔父を崇拝しておりますので、「ぜひにも教えてほしい」ということで。でも、コロナが大変なときだったでしょう。「どうしようかな?」とも思いましたが、来ていただいて。
細かいことからすべて教えてくださったので、本当ににうれしかったですね。
「いいよ、いいよ」「もうちょっと感情出したほうがいい」と、全部教えてくださった。最初は、リモートのほうがいいと思ったんですけど、福助の叔父のほうから「この役は、会って教えないとできない」と言ってくださって、来ていただいたんです。
中村屋の大切にしてきた「連獅子」を、初めて七緒八(勘太郎)が…という感情ではない
——一方で、勘太郎さんの「連獅子」(※)はいかがでしたか?
(※)歌舞伎座「二月大歌舞伎」公演で、勘太郎は父・勘九郎と史上最年少の9歳11ヵ月で挑む「連獅子」に出演した。
「連獅子」には、いろんな思いがありますけれども、僕が思っていた感情じゃなかった。それが、すごいなと。
中村屋の大切にしてきた「連獅子」を、初めて七緒八(勘太郎)が踊って出てきた…。そういう感情じゃなくて、「連獅子」という踊り、勘太郎という役者に感動しました。
お客さまには、歌舞伎の一つの楽しみですからね、そうやって見ていただいていいんですけど。でも僕は、「連獅子」という演目で、普通に中村勘太郎という役者が良かった。これは、すごいことだと思います。
——どんなところが良かったのでしょうか?
(動きの多い)仔獅子でしたしね。「疲れてないの?」と聞いてしまったくらい。僕たちは、もっとハアハア言っていた。普通は、前ジテ(※)終わって、後ジテで大口で毛振るのって絶望するくらい(過酷)なんですけど。
(※)シテ=前後に分かれた舞台では、それぞれ前ジテ、後ジテと呼ばれる。歌舞伎の場合、シテと、片仮名で書くのが一般的。
(勘太郎は)運動神経、あんまり良くないんですよ。僕なんて、結構足が速くて、体力的には、当時は今の勘太郎よりあったんですけど、それを感じさせないというか。「これは、すごいな…」と思いましたね。
うちの父親も運動神経は悪いんですけど、お客さまの声援をパワーに変えることが瞬間的にできるんです。それはなかなか教えられるものではないのですが、勘太郎はそれを引き継いでいますね。自分のエネルギーに昇華して出せる力が、勘太郎は群を抜いている。あれは、うらやましいです。
研究熱心なので、「今日できなかったことを、明日やる」いうことを常に考えてやっていたなと思います。
——七之助さんにとっての「連獅子」とは?
僕が人生で一番演じている役ですし、踊りの基礎は、芝翫の祖父(七代目中村芝翫)に教わっていたんですが、一番のポイントは、踊りの全般、全部の舞踊に通ずる礼儀みたいなものは、父親が叩き込んでくれました。
親獅子より一歩でも先に歩いたら怒られる。親獅子よりも先に手獅子をとったら怒られるみたいな。踊りの礼儀みたいなところから教わった演目です。
——思い入れは?
これは、何回も言ってるんですが、本当にいいときは(父が)ギューッと握ってくれるんですけど。このギューッという、手の感触だけを求めて、僕は仔獅子を勤めていました。
これはいけないことかもしれないけど、お客さまとかのためではなかったですね。もう完全に親父のため。父親に喜んでもらうために、死ぬ気でやっていました。ほかの演目では、なかなかこうはならないですね。
本当、ダメなときは目も見てくれなかったので恐ろしかったですし、だからこそ、ギュッとされたときには、泣いてしまうくらいの感じで。
——中村屋さんの「連獅子」が、新しい世代に引き継がれたことについてはどう感じていますか?
まあ、中村屋のものではないですから、「連獅子」という歌舞伎の舞踊が、父、私たちの兄弟、勘太郎に伝わった。
踊り方を教えているわけですが、根本の気持ちの部分が「ああ、伝わっているんだな」と感じられることがうれしいですよね。その姿を見て、いろんな方がきっと「ああ…」と思ってくれている。それは、とってもうれしいことです。
——長三郎さんに、舞台上での変化は見られましたか?
長丁場で、「集中力切れるかな」と思っていたんですけど、彼は大丈夫でしたね。ああ見えて計算してやってるように、僕には見えました。とてもホッとしましたし、不思議な力を持っている役者なんだなと思いました。
5月の「コクーン歌舞伎」は世の中が忘れていた感情を呼び覚ましてくれた公演
——5月の「コクーン歌舞伎」の「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」は、おおいに盛り上がりました。
コロナのせいで制約が大変多かったんですよ。うちの父親がいろんなところでやって、魂のこもっている作品なので「制約で、ダメだったね」と言われないようにしなきゃと。
私よりも兄がすごく抱えていたと思いますけど、コクーンで「夏祭」をやって、あの太鼓とね。いま世の中が忘れていた感情を呼び覚ましてくれた公演だったと思います。
あの太鼓の音の響き、腹の底からたぎる気持ちは、「やってよかった」「これだよな」という感覚がありました。
笑いたいけれど、笑うのを止めてしまう自分、拍手したいけれど、表現したいけど…というのが多かったので、それを取っ払ってくれた気がしました。
——この状況が続く中、お客さんの反応を元に戻すというのは?
難しいと思いますね。でも、そこを一瞬でも忘れ去るみたいなパワー、コクーンの「夏祭」、というか、うちの父親がやっていた「夏祭」。全員に魂が乗り移っていたので、すごく楽しかった。
(自身が演じた)お梶も、初役という感覚がないというか。(中村)扇雀さんも来てくれて教わったんですけど、「いろんなことを思い出した」と言って涙ぐんで…。
やはり、皆の思い出が詰まっているので、そこは中村屋のお弟子さんも勘がいいなというか。うちの父親がすごいんでしょうね。誰が言うでもなく体現できていました。
——そして6月には、「信州まつもと大歌舞伎」で松本へ。
松本は、父がすごく愛した街。街自体が最高ですし、そんな大切な場所に一番最初に持っていた舞台が「夏祭」(※)でしょう。
(※)2008年7月、平成中村座「信州・まつもと大歌舞伎」第1回公演の演目が「夏祭浪花鑑」だった。
松本の方々の「夏祭」に対する気持ちは、特別なものがあるので、最後の楽の日の横断幕(※)、あれは「特別な街なんだ」という思いがあふれて泣きましたね。
(※)3年ぶりに開催された「信州まつもと大歌舞伎」に、客席から「三年、待ちに待ってました!コロナに負けず、ようこそ松本へ!」「夢が叶った初回『夏祭浪花鑑』あれから十三年、必ず、これからも!」という横断幕が掲げられた。
中村鶴松なりの新吉像ができあがっていった
——8月には、歌舞伎座「八月花形歌舞伎」で、「真景累ヶ淵 豊志賀の死(しんけいかさねがふち とよしがのし)」がありました。(中村)鶴松さんが新吉を演じました。
鶴松は、昔から達者で勉強熱心ですから。コロナもあって、機会が与えられない状況だったのですが、あれは5月30日、父の誕生日。コクーンの千穐楽で鶴松も一緒にご飯を食べていたときに、「八月花形歌舞伎」の話になったんです。
松竹から本当は違う演目が来ていたのですが、僕の中では8月といったら、叔父・福助の豊志賀と、兄が新吉を演じた姿が頭にこびりついていたので「豊志賀はどうだろう?」と、ポンと言ったんです。
そうしたら、兄も同じことを思っていたらしく「え!?俺も思っていたんだけど…やりたいの?」って。それで「やりたい。新吉は、絶対鶴松が合うと思う」と言ったら、「ああ、いいよ」と…その場で松竹の方に電話して、もう即決ですよ。
これは「抜擢」と思うかもしれないけれど、僕がゴリ推ししたところで、いろんな方が「ちょっと…」と言ったら、なくなったかもしれないんですよね。でも、それで話が進んだのは、やっぱりあいつのことを、みんなが認めているから。みんなが「大丈夫だ」って思っていたから叶ったものですよね。
——新吉役に決まってからの鶴松さんの様子は?
すごく緊張していました。舞台稽古なんて、見たことない顔してました。
でも、いいことですよ。いい役者か、いい役者じゃないかって、そういうのを感じるか、感じないかだと思います。それを感じなかったら、ダメなんじゃないかと思いますね。
——実際に、鶴松さんの新吉はいかがでしたか?
最初は、うちの父と、うちの兄の新吉を映像で見まくった、という演技をしていたんですよ。だから、お客さんの反応がなかった。初日はもう、心が折れる音がポキポキしていました。
うちの父や兄貴がやったときに笑いとるでしょ?何回も見てるから、それがこびりついていて、反応がなかったら、「あ、反応がない」というのがずっとループしていた。
そこで、「ああいう役は、キャッチボールだから、型ではないんだよ」という話をして。歌舞伎役者が陥りやすいところにハマった感はあったんですけれど、それがだんだん、やっぱり勘がいいので変わっていきましたよね。
僕が、あるとき、わざと違うふうにやったらお客さんが笑って。次の日、それをやらなかったんですよ。そしたら鶴松は、僕がやってないのに、前の日のリアクションをやってしまった。それは、前日に受けたから。
それで、シーンとしてしまったんですよ。「そうじゃないよ。本当に思ってやらないと、お客さまは全然反応しないんだよ」ということが、身にしみてわかった。それから、彼なりに考えて、彼の新吉像ができあがったんだと思います。
——「赤坂大歌舞伎」への思いというのは?
僕の一番の思い出は、「鷺娘」を踊らせていただいたこと。そのときに、(坂東)玉三郎のおじさまが楽屋まで来てくださって、洋服のまま手ほどきをしてくださったんです。
それは父のおかげですけど、そこまで教わっていたわけでもなかったんですよ。でも観に来てくださって、「ここはこうだよ」と教えてくださったのは、本当にうれしかったですね。
——演目については?
演目は、タモリさん原案で、(笑福亭)鶴瓶師匠が新作落語としてやったものを、うちの兄が観に行って歌舞伎化した「廓噺山名屋浦里(さとのうわさやまなやうらざと)」。
これを歌舞伎座でやったときのカーテンコールは、生涯忘れられないものだったので、再演が決まったときはうれしかったですね。花道や回り舞台がなかったりと制約も多かったのですが、ハートフルなお話ですし、わかりやすい歌舞伎になっていて、お客さんも「良かった」と言ってくださる方が多かったです。
——勘太郎さんの「越後獅子」はいかがでしたか?
「浦里」は、前座でしょう(笑)。兄と僕は前座で、彼(勘太郎)のメインイベントを盛り上げるという。いやでも、しっかりしてるというか。かわいい、というだけじゃなくて、芸として感動を思わせる踊り方ができるというのは素晴らしいことだと思いますし、なかなかできる人はいないんじゃないかと思います。
勘太郎と長三郎は、毎日毎日成長していると思います
——七之助さんから見て、今年1年、勘太郎さんと長三郎さんに成長を感じたところは?
2人とも本当に芝居が大好きですし、12月5日は、父の祥月命日だったんですけど、うちで集まっていてもずっと芝居ごっこしてますし。毎日毎日、成長していると思います。
勘太郎は、昔から本当に堅実というか研究熱心、自覚というものがあるんですけど、長三郎がね、この11月「宵赤坂俄廓景色(よいのあかさかにわかのさとげしき)」の踊り見てると、そうなってきたなと。
今までの愛くるしいキャラクターだけじゃなくて、2月にお君ちゃんやったからかもしれないけど、役者として「変わったな」というのはあります。
僕があの年齢のころは、もちろん気をつけてやっていたのだけれど、ただ教わったことをやっていた。なんていうのか…お仕事で、お客さまがいて、ここにはお金が発生して…とか、そういうことを自覚するのは、もう少し遅かった気がします。
僕の知り合いからも、何人にも言われましたね。今まで長三郎が出てきたら、一番盛り上げて、かっさらって…そういう感じのキャラクターだったのが、「役者になってきたんだな」というのを実感しました。自覚が芽生えてきたんだなと思います。
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