<中村勘九郎 インタビュー>
――2025年は、どんな一年でしたか?
舞台はいろいろ勤めさせていただきました。三大名作の通し狂言(※)が上演されましたし、『仮名手本忠臣蔵』に出させていただいたというのも、役者としては大きかったですね。あとは、出会いがあり別れがあり――という激動の一年でした。
(※)2025年は松竹創業130周年を記念して、歌舞伎座で三大名作(『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』)を、3月、9月、10月に上演。
――3月には、田中亨さん(※)がお亡くなりになりました。
(※)十七世中村勘三郎さんから依頼され、1981年に十八世中村勘三郎(当時は五代目勘九郎)さんのマネジャーに。99年、勘九郎さん、七之助さんらが所属する芸能事務所「ファーンウッド」を設立。特別顧問を務めていたが2025年3月に急逝。
もう驚きました…。マネジャーは表に出ちゃいけないと、ただひたすら陰に徹するというか。『仮名手本忠臣蔵』という大きなものがかかる時に、自分のことで…と「具合が悪くなっていることを知らせるな」と言っていたそうなんですけれども。初日にいなくて「おかしいな」とは思ったんですよ。でも、ちょっと具合が…って聞いて「ああ、そうなんだ」というくらいで。
2月の『きらら浮世伝』の(千穐)楽の日に、美保純さんが見に来てくださってですね。七之助がやった役は美保さんが(1988年上演の舞台で)やっていたので。それで稽古場のところで、みんなで会って。田中さんも、すごくニコニコしていて「良かったね」って言って握手したのが…そこで会ったのが最後だったから。普通に元気だったのでね…驚きました。
――田中さんは、俳優・中村勘九郎さんにとって、波野雅行さんにとって、どんな存在だったのでしょうか?
うーん、中村勘九郎も波野雅行も一緒だな。本当に、お父さんのような存在でした。とにかくもう、田中さんがいれば大丈夫。それは、うちの父も思っていたことだと思いますし。絶対の信頼を置いている人でしたし、何とかなる。とにかく守ってくれる人でしたね。
とても強面でね。そして、誠実な人だった。曲がったことに対しては烈火のごとく怒る人でした。けれども内面は、とてもチャーミングで楽しいことが好きで。
「このデパート、アクノジュウジカ(悪の十字架/開くの10時か)」とかの言葉遊びを教えてくれたのも田中さん。それを子どもたちに教えたときは「田中さんから教わったんだよ」と。
子どものころの僕らにすごくやさしくて。旅行なんかは、だいたい田中さんが連れていってくれたの。例えば、四万温泉に行ったんですね。お風呂がね、5個くらいあるんですよ。子どものころだから、森のお風呂入ったら、次は岩のお風呂とか、もうハシゴ。5個入ってまた繰り返す、みたいなのに一緒についてきてくれて。で、田中さんが熱出しちゃったの。
最初に激怒されたのも覚えてる。田中さんはヘビが嫌いなんですね。ヘビのおもちゃを田中さんの首に巻いたことがあって。あれ、俺じゃなかったらどうなっていた(笑)。7歳とか8歳くらいかな。
