幼稚園の時に歌舞伎に魅了され、一般家庭から国立劇場の歌舞伎研修生となり、昨年ついに念願の「成田屋」に入門した19歳の市川福五郎。
研修所での生活、歌舞伎役者として今年2年目を迎える奮闘ぶり、夢を叶え続ける若き歌舞伎役者は何を思っているのか。 師匠・市川海老蔵の全国公演を9月に控え、現在稽古に大忙しの福五郎にフジテレビュー!!がインタビュー。
<市川福五郎インタビュー>
十二代目・市川團十郎への手紙から始まった
――歌舞伎役者を志したきっかけを教えてください。
幼稚園の時にパソコンを見ていたらそこに急に歌舞伎の宣伝が流れて、「この白塗りは何?」と驚いて母に聞いたら「歌舞伎だよ」と教えてもらいました。なぜだか分かりませんが「怖いけどかっこいい!」と思い、歌舞伎に興味を持ち始めました。
そうしたら父が「どうせなら、ちゃんとしたものを観せてあげたい」と、「スーパー歌舞伎 ヤマトタケル」の大阪松竹座公演での一番良い席を取ってくれました。僕は破天荒な子どもだったんですが、その時だけはずっと真面目に舞台を観ていたそうです。そして、劇場を出た瞬間に父に「歌舞伎役者になる!」と宣言しました。
――そう告げた時のご家族の反応は?
歌舞伎にもその他の古典芸能にも全く関わりがない家庭だったので「急にどうしたの?」と驚いたそうです。初めて観た演目が古典歌舞伎ではなく、スーパー歌舞伎で子どもでも飽きずに観れたのが良かったのかもしれません。そして次は東京の新橋演舞場に連れて行ってもらい、その時に観たのが今の師匠・市川海老蔵さんでした。そこから、成田屋の芸と荒事(※)が好きになり、古典にもすごく興味を持つようになったんです。
(※)江戸時代に初代市川團十郎によって創始された、荒々しく豪快な歌舞伎の演技。
――その後、どのように歌舞伎役者への夢を形にしていったのでしょうか。
何をしたら歌舞伎役者になれるのか、どうしたら夢に近づけるのか、全く分からなかったんです。そんな時、父が働いていた会社の宴会に家族で参加したら、そこに白塗りをしている芸者さんがいらっしゃって。「白塗りだし、歌舞伎に近い人なんじゃないか?」と思い、「歌舞伎役者になるにはどうしたらいいですか?」とその芸者さんに聞いたら、日舞を習うことを勧められたので、小学2年生の冬から歌舞伎役者を目指して日舞を習い始めました。
カードゲームやアニメに興味を持つ年頃だと思いますが、ゲーム機がない家庭だったということもあり、そういったものに興味がなかったんです。歌舞伎をテレビで観て、その真似をしながら育ちました。歌舞伎が一番かっこいいと思っていたし、日舞を習っていることで夢に近づけているような気がしてすごく楽しかったんです。
その頃、日舞の師匠に「成田屋に入りたい」と言ったら手紙を書くことを勧められたので、十二代目の市川團十郎さん宛に手紙を書きました。すると「もしよければ、東京でお会いしましょう」とお返事をいただき、東京へ歌舞伎を観に行った際に楽屋挨拶に伺わせてもらうことになりました。
旧歌舞伎座の楽屋で、十二代目が一対一で「なんで歌舞伎役者になりたいの?」など質問してくださって。十二代目は僕にとって神様みたいな存在だったので緊張しましたし、楽屋の照明が後光みたいに見えました(笑)。ただ、現実問題として実家が関西なので小学生を一人で東京へ行かせるのは難しいし、家族で東京に引っ越すのも難しいので、その時は「夢を諦めないで頑張って」という言葉をいただいて帰りました。それから大阪で舞台がある時は、團十郎さんの舞台を観に行かせていただきました。
片岡愛之助からの誘い、歌舞伎俳優研修所へ
――家族や周囲の方々は夢を応援してくれていましたか?
そうですね、でもお金持ちという家庭ではないので、日舞のお月謝を払うことが苦しくなった時があって、母が師匠に「お稽古を辞めさせていただこうと思います」と話したら「この子には未来がある、お月謝はいらないから」と言っていただき、稽古を続けさせてもらっていました。今の自分があるのは日舞の師匠のおかげです。周囲の方々のおかげでひたすら稽古に向かえました。
小学4年生の時に、大阪の日舞のコンテストで「大阪市長賞」を受賞した舞台に出演したのですが、その舞台を見ていた方を通じて片岡愛之助さんから「もしよければ、歌舞伎の子役をやらないか?」と誘っていただいたんです。小学6年生で初めて歌舞伎の舞台に出させていただき、それから大阪での舞台がある際には呼んでいただくようになりました。その後、中学生になり「進路どうしよう?」と考えた時に、元々江戸歌舞伎が好きだというのもあり、東京の歌舞伎俳優研修所(※)に入ってみようと思ったんです。
(※)独立行政法人日本芸術文化振興会が、歌舞伎俳優の伝承者を養成するため、一般社団法人伝統歌舞伎保存会・松竹株式会社と協力して、将来舞台で活躍する志を持つ歌舞伎俳優を養成する研修所。
研修は2年制で、今は1年に1度の募集ですが、当時は2年に1度の募集でした。中卒から入れますが、タイミング的に僕の場合は高校1年生で退学して入るか、卒業してから入るかの2択でした。悩みましたが、早いほうがいいんじゃないかと思い、1年だけ高校生活を楽しみ、16歳で退学し東京へ出ました。
――そして東京へ…。当時の気持ちは?
周りの子は夏休みに海とかに行って遊んでいる様子をSNSで楽しそうにUPしている。東京に出てきたはいいものの、研修所に入っても成田屋に入れるとは限らない。この先どうなるか分からない中でひたすらに稽古をしていて「本当にこの道で合っているのかな?」と考えることもありました。1年目が一番苦しかったですね。
研修では、まず初めの授業が歌舞伎役者の基本、浴衣の帯の結び方、着方、日舞も習います。日舞は花柳流と藤間流という2つの流儀があって、それぞれの流派でお辞儀の仕方も違います。あとは、発声の仕方や基礎を習い、歌舞伎の立廻り「とんぼ(※)」の基礎体力作りもします。
(※)主役から切られたり投げ飛ばされる時にする宙返りのこと。
――同期の仲間はどういう存在ですか?
最初は9人でのスタートでしたが、卒業時には6人になりました。入って半年ほどで、歌舞伎役者の適正検査が行われます。歌舞伎の舞台で活躍されている幹部の方々、日本舞踊のご宗家の方々が並ばれて見ている中で日本舞踊、台詞、立廻りの試験をするんです。そこに行くつくまでにきつくて辞めてしまう人も出てきます。
同期はお互い助け合った仲間であり戦友です。 同期だからこそ話せることもあるし、僕からすると失った高校生活を、研修の2年間で取り戻せたような感じなんです。研修は大変でしたが、後々考えてみたら楽しいことがいっぱいありました。それぞれが別の一門に入りましたが、今でもよく集まっては思い出話で盛り上がります。
憧れの成田屋へ、市川海老蔵の弟子に
――そして憧れの成田屋へはどうやって入門することになったのでしょうか。
研修の2年目の頭から国立劇場の方に「どこの家に入りたいか?」と4回くらい聞かれるのですが、僕はすべて「成田屋です」と答えていました。もちろん希望を出しても入れない場合もあるので最後までどうか分からなかったのですが、無事に入門許諾のお返事をいただき、楽屋挨拶を経て初めて入門が成立となります。
人生で2回目に歌舞伎を見たのが若旦那(市川海老蔵)の演目だったという縁もありますし、若旦那も大好きだし、成田屋の芸も大好きだし、とにかく入りたかった家に入れて本当に嬉しかったです。
――初めて海老蔵さんにお会いした時の印象は?
とても目力があるので、最初は圧倒されてビビりまくりでした(笑)。若旦那の演技は一瞬一瞬にも緊張感があります。毎日一定のリズムで同じ立廻りをするのではなく、その日その日で演技を変えられます。脇役として舞台で少し絡むだけでも、立廻りについていくのがすごく大変ですね。例えば、ちょっとぶつかって提灯が消えるというシーンでも「お前、消えるタイミング一瞬だけど遅いよ」と、ほんの一瞬のことを指摘されます。
うちの一門って、歌舞伎界の中で相当厳しいほうだと思います。各一門には、女形さんで優しくも厳しいお母さん的な存在の方がいらっしゃるんですが、うちの一門だけ一人もいなくて全員強豪の野球部みたいなイメージです(笑)。でも成田屋は厳しいけれど、どこの一門よりもファミリー感が強いと思います。先輩とはみんなでお食事に行ったりバカ話も結構しますよ。
――入門して2年目を迎えた今はどのような活動を?
若旦那の出られる舞台に弟子としてついて行って、若旦那を劇場でお出迎えして楽屋までお届けします。舞台袖まで「おかもち」という、人によって多少持ち物は変わりますが、飲み物や飴、お化粧道具など若旦那の必需品が入っている木箱があるんですが、それを持って行って横についたりといった舞台の中での付き人などをやらせていただいています。
一番記憶に残っているのは、昨年の7月の「星合世十三團」という演目です。若旦那が“13役早変わり”をされるんですけど、僕はずっと裏についていてその早変わりの誘導をしていました。客席、ロビー、劇場の様々な所を、おかもち等を持ってダッシュして、ブワーッて走るんです。唯一ひと息つけるのが、舞台に出て立廻りをしている時という。「返り立ち」といって、4人の上を飛んで越すということを舞台上でやっているのに、それが休憩だと思えるくらい、1ヵ月間毎日裏がすごく大変でした。
連日疲れ果てて睡眠をしっかりとれなくて、千秋楽の方ではいつも転ばないような所で転んでしまったこともありました。まだ入って3ヵ月目だったのですが、やることが多すぎて頭がパンクしそうでした。でも、あの1ヵ月間がなかったら今の自分ができていなかったんじゃないかな、とも思います。しばらくはやりたくないですけれど(笑) 。
――歌舞伎の世界に入ってよかったと思う瞬間は?
「祇園祭礼信仰記~金閣寺」という演目の中で、此下東吉(このしたとうきち=木下藤吉郎、後の豊臣秀吉) と戦って倒される「力者(りきしゃ)」という役があり、花道でとんぼを返るシーンがあるのですが、8歳くらいの時にそのシーンを観て「かっこいい!」と憧れた役でした。それを今年の1月に自分が演じた時に「ついに自分もここに来れたんだな」とすごく感動して、その瞬間に歌舞伎役者をやっていてよかったなと思いました。
――憧れの役はありますか?
憧れの役は2つあったんです。その1つが金閣寺の「力者」、もう1つは「御存 鈴ヶ森」という演目で一番最後に一人でポンと出てきて、とんぼを返る役があるのですが、今年の1月に急に自分に回ってきて演じることができました。やりたい、と言ってやりたい役ができる世界ではないのですが、次の憧れの役は胸の中に秘めています(笑)。
福五郎流・夢を叶える秘訣
――夢を叶える秘訣や、叶えるために大事にしてきたことはありますか?
「中途半端な好きではない」ということでしょうか。もし、歌舞伎好きな方が「歌舞伎が好き」と言って、僕が去年7月に体験したことをやったら、たぶん辛くて歌舞伎を嫌いになってしまうと思うんです。僕にとってはその1ヵ月間は体力的に地獄のように大変でしたが、なぜか最後までやりたいという思いがこみ上げてきたんですよね。なぜかというと「好きだから」というのがあるから。本当に好きだったらなんでもできるんだなと思っています。
――今後の夢を教えてください。
僕の世代、特に学生くらいの人たちの歌舞伎に対しての認知度は低いと思っていて、 僕の同級生でも、歌舞伎に対するイメージは「いよぉー!とか言うやつやろ?」とかそれくらいの認識なんです。でも歌舞伎を実際に観てもらったら、「いよぉー!」という掛け声は役者が言っているわけではなく「囃子方(はやしかた)」(※)が担当されている、そういうところも含めて歌舞伎に興味を持ってもらいたいなと思います。
(※)小鼓、大鼓、締太鼓などの打楽器と笛から成り「鳴物(なりもの)」とも呼ばれる。
歌舞伎をもっと若い人たちにも観ていただきたいという思いもあります。昨年11月の「ABKAI」(※)には「Snow Man」の宮舘涼太さんと阿部亮平さんが出演されたのですが、そのファンの方が歌舞伎を観に来て「歌舞伎めっちゃ面白い!」とSNSで書いてくれているのを見てとても嬉しかったんです。
なので僕もいろいろなことにチャレンジして、同世代の人にもっと歌舞伎を知ってもらえるようなことを出来たらと思っています。若旦那みたいに、テレビ等の歌舞伎以外の場所で見ても「歌舞伎役者だ!」と認知されるような人になりたいです。
(※)2013年より市川海老蔵が自ら企画、製作を手がける新たな歌舞伎の舞台。
歌舞伎座には初めての方でもイヤホンガイドや字幕ガイドがあり、内容を知らなくても楽しめますし、お土産売り場も楽しいです。歌舞伎を通してぜひ江戸時代にタイムスリップしたような気分を味わってもらえたら嬉しいです。
<2020年9月21日(月) ~全国12ヶ所27公演にて開催される「市川海老蔵 古典への誘い」公式サイトはこちらから!>