さまざまな世界で活躍しているダンディなおじさまに、自分の人生を語ってもらう「オヤジンセイ~ちょっと真面目に語らせてもらうぜ~」。

年を重ね、酸いも甘いもかみ分けたオトナだからこそ出せる味がある…そんな人生の機微に触れるひと時をお届けする。

<これまでの【オヤジンセイ】記事はこちら>

今回は日本の芸能界を代表するエンターテイナー・井上順が登場。前編では、幼少期のこと、ザ・スパイダースとして活動していた当時について聞いたが、後編では、あのピースサインの元祖だった話や、昭和のお茶の間を楽しませてくれた『夜のヒットスタジオ』『新春かくし芸大会』の思い出、そして人生のモットーについて語ってもらった。

<井上順の【オヤジンセイ】前編はこちら>

「ピース!」はアメリカで撮影した小型カメラのCMがきっかけ 

僕がピースサインを世に広めたと巷で言われてますが、そもそもは「ジャーニーコニカ」という愛称で親しまれた小型カメラのコマーシャルがきっかけなんです。というのも、撮影でアメリカに行った時、いきなり向こうのスタッフがどういうわけかみんな「ジュン、ピース!」とやってきたんですよ。

当時のアメリカはベトナム戦争の最中で反戦運動が盛んで、つまり「平和」の意味を込めたサインだったんですね。僕、そういうのすぐ染まるから(笑)、撮影中もアドリブで挨拶代わりにやっていたら、スポンサーさんも「これで行こう」ということになって。

そうしてCMが流れたら、今度は街を歩くとみんな僕に向かって「ピース!」ってするんですよ。その頃に研ナオコさんや野口五郎さんと共演していたバラエティ番組でも、食事のシーンでは「はい、ソース」、病院のシーンでは「はい、ナース」とかダジャレを言ったりして(笑)。ステージに立てばお客さんがみんなピースをしてくれたし、改めてメディアのパワーのすごさを感じましたね。でも別に悪いことをしたわけでもないし、みんなが笑顔になるならいいかなって。

29歳で『夜のヒットスタジオ』3代目司会に抜擢!「プレッシャーはなかった」

『夜のヒットスタジオ』は29歳から38歳までの9年間、芳村真理さんとともに司会を務めさせていただきました。それ以前はゲストとして何回か出させていただいたことがありましたが、プロダクションやレコード会社の方たちの「この番組にだけはうちの歌手、グループを出したい!」という熱気がものすごかった。当時はまだCDもない時代でしたから、『夜ヒット』を見た視聴者のみなさんが次の日、レコードを買いに行くんですよ。まさにこの番組に出ることがいろいろな人にとって一大イベントだったんですね。

まさか自分に司会のお声がかかるとは思ってなかったけど、プレッシャーはありませんでした。僕も歌手ですから、歌手の気持ちが分かります。どうやったら彼らが一番いい状態で歌をお披露目出来るか、気分を盛り上げることが僕の仕事なんだと。

それになんといっても芳村真理さんですよ。この人は本当にすごい。番組が長く続いたのも芳村真理さんありきだったと思うし、この方がいたからこその『夜のヒットスタジオ』だったと思います。

番組での2人のやりとりは台本なんてなくて、完全にアドリブ、フリートークでした。でも、芳村さんが毎回、僕に(話の)ソースをくれるんですよ。「なんだこのメイクは」「なんだこのヘアスタイルは」と、僕がそれについて話せば会話になる。それが生っぽさやライブ感覚につながっていく。服装だけでなく、芳村さん自身が人としてファッショナブルでしたね。

番組の思い出を挙げたらキリがないけど、沖縄から生中継をした時(1975年)、ちょうど台風が直撃してスタジオの外はもう雨がザーザー吹き付けていて、ものすごかったんですよ。「みんな寝てないで、起きなわ(沖縄)」なんて冗談も交えながら番組は進んでいったんですけど(笑)、僕の出番の時、ディレクターが「カメラを通すと今一つ台風の臨場感がないので、申し訳ありませんが外で歌ってもらえませんか」って言うんですよ。案の定、イントロですでにビッチョンビッチョンになりました…。

もう一つ印象に残っているのは、箱根園から放送した時(1980年)。夜の森は雰囲気があってすごい良かったんだけど、濃霧で視界が真っ白(笑)。もう1m先も見えないくらいだったけど、隣の芳村さんをふと見たら、霧でフォーカスがかかっていてね。「芳村さんってこんなにキレイだったんだ…」としみじみ思いましたよ(笑)。

準備に半年かけていた『新春かくし芸大会』。「大切な、手作りの時間がそこには確実にあった」

今はもう当たり前になりましたが、『新春かくし芸大会』の放送がスタートした当時(1964年)は歌い手さんがお芝居をするということは、そんなに多くありませんでした。だから“かくし芸”になったわけで。

この番組では、芸能人のみなさんが東軍と西軍に分かれてさまざまな芸を披露するのですが、僕は『刑事コロンダ』『ピンク・パンサー』『ダンディーハリー』『インディージュンズ』といったパロディドラマによく出演させていただきました。

中でも、谷啓さんと加藤茶さんという僕の大好きな2人にはとっても助けられました。お2人が演じると台本の何倍以上もの面白さになるので、毎回、この2人をお借りできないかと事務所にお願いして出てもらっていたんです。放送はお正月なんだけど、準備は梅雨入りする前くらいから始まります。何度もダメ出しを重ねながらアイデアを出し合い、放送に向けて形に仕上げていく。ありがたいことに海外ロケにも何度か行かせていただきました。

時代の流れと共にお正月の過ごし方が変わり、家族や親戚がそろって一緒にテレビを見るという臨場感のようなものがだんだん薄れていき、番組は長い歴史の幕を閉じました。仕方のないことかもしれないけど、とても大切な、手作りの時間がそこには確実にありましたね。

「アフタータイムが大事な時間だった」その時間で得た“出会い”が井上順を育てた

昔が良くて今が悪いとは言いませんが、一人ひとりが強くなったのかなぁ、今はみんな仕事が終わると「お疲れ様でした」と言ってすぐに帰っちゃうじゃないですか。昔は仕事が終わった後、「順坊、ちょっと時間あるか」と先輩に呼ばれて「ここは、こうしたほうがいいと思うんだ」と有難いアドバイスを頂戴したりして、アフタータイムがものすごく大事な時間だったんです。

僕も知らないことがあれば「ここはどうしたらいいですか?」と彼らに尋ねると「正解かどうかは分からないけど」と答えが返ってくる。まさに“百聞は一見にしかず”で、いろんなことが耳から入ってきても、最後は自分の目で確かめたいんですよ。今でも自分でお金を払って映画や舞台を見るのも、そういう気持ちからです。招待されてチケットをタダでもらったら、褒めないわけにはいかないじゃないですか(笑)。

会えば挨拶がわりに「どうしてた?」と尋ね、そこからコミュニケーションが広がっていく。そういう時間とたくさんの「出会い」が僕を育んでくれました。人はもちろん、時代だったり、モノだったり。そのことを今も実感します。人間、新しいものを求めていくことは当たり前だけど、どこかベースに古いものというか、培ってきた古さがあると、味わいが違うんじゃないかなと思いますね。

好きな言葉は「DO」=思ったらやる

Twitterを始めて1年半ほどになりますが、もともとは始めるつもりはなくて。渋谷生まれの渋谷育ちとして、時間が空くとお祭りとかさまざまなイベントとかいろんなことをお手伝いしていたら、名誉区民という称号を頂戴しまして。何かをいただいたらお返しするのが当たり前ですから、世間では若者の街と言われている中、自分目線の「渋谷」を発信出来たらと思ったんです。

最初は「それならYouTubeですよ」って周りに言われたんですけど、機械オンチだし、自分で自分を撮るということが苦手で。そしたら「Twitterでしょう」と。聞けば「つぶやく」だけでいいと。住んでるところも「つぶや区」(渋谷区)ですしね(笑)。

写真は僕が街の人に声をかけて撮ってもらっています。ありがたいことにフォロワーの方も増えましたし、ダジャレを考えていると頭が鈍ることもない(笑)。始めて良かったなって思いますね。まだまだコロナ禍、ステイホームが続きますが、僕のダジャレの入ったつぶやきでちょっとでも和んでもらえたら、こんなに嬉しいことはないです。

僕の好きな言葉の一つに「DO」という言葉があって、思ったらやる。とにかくそれが大好きなんです。「あの人、今、何してるんだろう」って思ったら、名刺を探してすぐ電話をかけちゃう。良い悪いは別として、やれば「結果」が出るじゃないですか。失敗することもたまにあるけど、やらなければ何も生まれないわけだから。

僕にとって一番の褒め言葉は…「かっこいいね」

エンターテイナーって、歌手とか俳優とか、芸能人だけの言葉じゃないと僕は思っていて。この世に生きている一人ひとりが、おぎゃあと生まれて、自分の役割を見つけるためにいろんなこと考えながら生きている。それだけでもうエンターテインメントじゃないですか。

起こる出来事はいっぱいあるけど、決まりごとなんてない。その意味で、誰もが毎日エンターテイメントしているんですよ。「私なんて大したことないですよ」って思うかもしれないけど、一人ひとりが役に立っている。だってそのために生まれたんですから。

今日も無事に朝を迎えられたところから始まって、仕事に行く人たち、学校に行く子どもたちの姿を見て、どれだけの「嬉しい」「楽しい」を頂戴できるか。それが僕の人生のテーマです。そのためにもまだまだ長生きしたいし、前進あるのみです。

オヤジでもジジイでも何でもいいですよ(笑)。呼び方なんて小さなこと。それよりも僕は言われたい言葉があるんです。

「かっこいいね」。

僕にとってそれが一番の褒め言葉ですね。

井上順、医師になる

「もし、歌手・俳優にならなかったら?違った自分になってみてください」。その質問に、井上から返ってきた答えは「医師」だった。その理由とは?

残念ながら僕は理系ではなかったので、医師になっていた可能性はありません(笑)。でも、実家が馬場だったので、獣医である父が馬を診ている姿を子どもの頃から近くで見ていました。

「命を救う」って、改めて考えるとすごい言葉ですよね。当時『ベン・ケーシー』という海外ドラマを見ていたこともあって、感化されやすいんだけど(笑)、人助けできたらいいな、という思いをずっと抱いてきたんだと思います。

自分を生かして誰かのお役に立てる、それが人間の務め、役割じゃないかなって僕は思うんですよ。「そんなこと言っても、(誰かのためにやったはずのことで)嫌なこともあったでしょ?」ってたまに聞かれるけど…思い出せないのよ(笑)。

撮影:河井彩美
取材・文:中村裕一