伍代夏子が、今年、芸能生活40周年を迎えた。1982年にデビュー後、3度の改名を経て「伍代夏子」として1987年に再デビュー。以降、「戻り川」「忍ぶ雨」「恋挽歌」など数々のヒットを飛ばし、『NHK紅白歌合戦』には22回出場を果たしている。
1999年には、杉良太郎と結婚。杉のライフワークである福祉活動に、夫婦そろって取り組む姿はおなじみで、そのおしどりぶりはつとに有名だ。
最近では、歌手活動の傍ら続けてきたという写真撮影の作品を集めた、初の写真展「残像~アフターイメージ」も開催(10月17日まで、tokyoarts gelleryにて)するなど、活動の場を広げている。
<伍代夏子 歌手活動再開に「収録が終わってから、号泣してしまいました」>
フジテレビュー!!では、そんな伍代に話を聞き、今年迎えた芸能生活40年を振り返ってもらった。
<伍代夏子 インタビュー>
――芸能生活40周年おめでとうございます。まずはデビューからを振り返っていただきたいのですが、1982年のデビューは「伍代夏子」ではなく、「星ひろみ」名義だったそうですね。
最初は「星ひろみ」で、そこから3度改名して「伍代夏子」は、4つ目の名前(※)です。最初の名前のときは、まったくわからないままのデビューでした。プロダクションに所属して、もちろん売れていないんですけど、それでも売ろうとしてもらっている様子もなく…。
そこから4ヵ月くらい経って、ある日会社に行ったら、もぬけの殻になっていました。夜逃げ同然でいなくなっちゃったんです。だから、星ひろみとしての活動は、4ヵ月しかないのです。
そのあと、センチュリーレコード預かりで、電話番、お茶くみ、総務のお仕事のお手伝いをしながら、レッスンをして時期を待ちました。それで、昭和60年に平松政次さんとのデュエット(「夜明けまでヨコハマ」)で、加川有希と名前を変えて再デビューしました。
※星ひろみ、加川有希、中川輝美と、3回改名している。
――そんな中で、心が折れたり、あきらめようかな、と思うことはありませんでしたか?
それがですね、私は根っからポジティブでして。所属事務所はなくなりましたけど、次のデビューをしたときには、結構明るい気持ちだったんです。やっとスタートラインに立てた、と思ったもので。ですから、折れてはいません。
そのあと、中川輝美では着物になれたのがうれしくて。加川有希のころは、ポップスっぽかったのですが、着物で演歌を歌うのが私の望みでしたので、ものすごく“あげあげ”ムードでした。
自分の意識の中では、何とか2軍のベンチから次は2軍のスタメン、そこから何とか1軍に上がりたい、みたいな思いがありましたので、大丈夫でした。
――そのポジティブさは、本来の伍代さんの性格なのでしょうか?
もともとではあると思います。でも、根っから明るいわけではなくて、人前もあまり好きではないし、引っ込み思案なところもあったり。子どものころから、悪いことを想定して心構えるところがありました。
意外と慎重で、最初から、A案、B案、C案と考えておくほうなんです。だから、何か良くないことがあっても、「これはしょうがない。だったら、次はこっちね」という感じで、前向きでいられるのだと思います。
初めての『紅白』で記憶が飛んだ?「『私、二番から歌っちゃった』というくらい記憶がないんです」
――そして、9年目には『紅白歌合戦』への初出場をつかみとります。
そこを目標にやっていましたから。(伍代夏子名義でリリースした)「戻り川」(1987年)が売れたときは、びっくりして。それで「翌年、頑張ろう」と『紅白』を目標にしましたが、2年目が次点で終わって。3年目の「忍ぶ雨」(1990年)のときに「もう、絶対にこれで(決める)」と思っていたくせに、いざ、出られるとなったら、まず、信じられないのと、涙が止まらなくなってしまって。
『紅白』は発表になってから本番まで1ヵ月あるんですね。もう、親から近所の商店街からみんなでバンザイして。それからというもの、何にでも感動しちゃう。「なっちゃん」って肩叩かれて、振り向いたらもうボロボロ(泣き出す)っていう(笑)。
それで(坂本)冬美ちゃんが「なっちゃん、そんな今から泣いてどうするの。出られなかった人もいっぱいいるんだから、泣かずに当日は歌おうね」と、ちょっと先輩風を吹かせて、そんなふうに言ってくれたのを覚えています。
――『紅白歌合戦』の本番はいかがでしたか?
それが、何も覚えてないんです(笑)。イントロから記憶が遠くなっていって…司会の三田佳子さんが「お父さん、お母さん見てますか?」って言ってくださって、そこまでは覚えているんですけど。だけど、あとから映像を見たら、ものすごく堂々としていました。
(本番が終わり)家に帰って、親も起きて待っていてくれて、ご飯食べながら、(ビデオテープを)巻き戻して見ました。そうしたら、わりかしにこやかに、しっかりお辞儀してニコニコしながら歌っていました。
それで、歌い終わって、マイクを音声さんに返したときに、冬美ちゃんが待っていてくれたんです。「なっちゃん、よかった、よかった。泣かなかったね、頑張ったね」と言われたら、バーッと涙があふれ出て。「私、二番から歌っちゃった」と言ったくらい、歌っているときの記憶はないんです。
杉良太郎と結婚して初めて「『座長ってこうじゃなきゃいけないんだ』と知りました」
――その後、1994年には初座長(「歌手生活10周年記念 伍代夏子特別公演」/新宿コマ劇場)も経験されます。座長経験がもたらしたものは?
座長は大きな経験ですね。自分が出て接客しなくちゃ、と思いました。それまでは、自分の出番さえちゃんとやれていればいい、という考えでしたけど、座長となるとそうはいきません。自分が出ていない場面のことやお客様が退屈していないだろうか、ということも気にしなければいけない。
それを1ヵ月、毎日すべて自分の責任だという思いで向き合っていると、しっかりしてきますよね。ただ、正直に言うと、当初は座長といってもそこまでの意識ではなかったです。主人(杉良太郎)と結婚して初めて、「座長ってこうじゃなきゃいけないんだ」というのを知りました。
例えば、座組の誰かが具合悪くなったらすぐ病院を手配したり、穴が空きそうだったら代役を考えたり、「売店の売り上げどうなんだ?」と確認したり。杉さんは、そこまで見るんですよね。そこまで気にかけないといけないんだということを、初めて知りました。
――お芝居をするということについてはいかがですか?
芝居は、相手役の人の状況をしっかり見て、「あ、今日はちょっと調子悪いのかな?」とか、合わせることも必要ですし、常にキャッチボールですよね。それを1ヵ月やってみると、歌も変わります。語り口調が変わったり、お客さんとのやりとりを楽しんでいるうちに、届ける意識も変わってくるな、と思います。
――BSの歌番組などで見る、演歌のみなさんの何気ないトーク。台本はあるんでしょうけど、絶妙な間で会場を笑いに包むあの空気感は、舞台を経験している方が多いからなのでしょうか?
それはあるかもしれないです。お客さんの反応をしっかり捉えていくというのは、常にやっていますね。なんとなく(お客さんが)引いてるな、と思ったら、「ここは切ったほうがいい」(と判断したり)とか。舞台に立ってる人間は敏感だと思いますね。
――そして、お話に出ました杉良太郎さんとのご結婚(1999年)は、伍代さんにとってどんな出来事でしたか?
私、ポジティブでしたから、「辞めようかな」とか「大丈夫かな」とかって滅多に思わないんですよ、思ったとしても打ち消す力が強いんです。「いやいや、まだまだここまでは」という感じで。ですけど、結婚を決めたときだけは、初めて「ダメかもな」と思いました。
私がとにかく凝り性で完璧主義な部分があるので、家庭なのか、歌なのかって考えたら、「どうしよう」って思いました。杉さんと結婚したら、やっぱりきっちりお世話しないとダメだと思ってましたから、「仕事しながらできるかな」と思いました。
でも、これは案ずるより産むがやすしで、逆に両方楽しくなりました。能力は逆に上がるくらいです。「ここまでしか時間がないから、ここで集中的に台本覚えよう」といったふうに、自分に制限をかけると、今までダラダラやってたものが、早く進むんですよね。
自分を追い込んだり、枷(かせ)をかけるというのは、私の場合はいいことだったかもしれません。もちろん、年齢を重ねるうちに肉体的に大変なこともありますけど、心はむしろ自由になった感じもしました。
撮影:河井彩美 取材・文:田部井徹