さまざまな世界で活躍しているダンディなおじさまに、自身の半生を語ってもらう「オヤジンセイ~ちょっと真面目に語らせてもらうぜ~」。

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年を重ね、酸いも甘いもかみ分けたオトナだからこそ出せる味がある…そんな人生の機微に触れるひと時をお届けする。

今回のゲストは、池脇千鶴主演のオトナの土ドラ『その女、ジルバ』(毎週土曜23時40分)に出演中の品川徹。

前編では、ドラマでのエピソード、ターニングポイントとなったドラマ『白い巨塔』、役者としてのポリシーなどについて聞いた。

<品川徹の【オヤジンセイ】前編はこちら>

後編では、子供時代から俳優になるまで、舞台にのめり込んだ劇団時代、影響を受けた人物などについて聞くとともに、「今の人生でなかったら、なりたかった職業」に変身してもらった。

勉強嫌いで高校には行かず、家具店で修業の日々

僕は、北海道旭川で生まれました。勉強が嫌いな子供でね、学校から家に帰っても遊んでばっかり。でも、性格は内気で、シャイ。家の中では威張っていたから、内弁慶でしたね(笑)。

勉強が嫌いで高校には行かず、家具屋さんに入って修業をしました。旭川は木材が豊富だから、木工が盛んなんです。だから、家具屋さんがたくさんあったわけ。

当時は、職業補導所というのがあって、カンナのかけ方や刃の研ぎ方、ノコの使い方を教えてくれて、簡単なものを作らせてもらえるの。1年間、そこで教えてもらって、その後、兄弟子が5人いる町の工場で2年半くらい働きました。

下駄箱を作ったり、最後は、北海道独特の木目模様を出す技法を使ったタンスを作らせてもらったりもしたけれど、嫌になっちゃった。飽きちゃったんだね(笑)。それで、辞めてしまったんです。

高校の演劇部で開眼し「俺は役者になりたい!」

そこから、もう少し勉強しようと思って定時制高校に入って4年間通いました。自分は、内弁慶で内気でシャイでしょ。人前に出ていくのが恥ずかしいという自分の性格を克服しようと思って演劇部に入ったの。演劇って、人前でやるわけじゃないですか。演劇をやれば、自分も変われると思ったんです。

そうして演劇に取り付かれちゃった(笑)。それで、「俺は役者になりたい!」と思って上京して、池袋にある舞台芸術学院で3年間学びました。

俳優座の養成所も受けたけど、落ちました。作文が書けなかったのですよ。僕は小説が好きで、いろんな作家の本を読んでいたから、文章を作るというのは、作家が書くようなきれいで気の利いたものを書かないといけないと思い込んでいたところがあって。試験では、話し方とかパントマイムとかいろいろやらされたんだけど、作文は書けなくて白紙で出しちゃった(笑)。

太田省吾がいなかったら品川徹という役者はいなかった

それで、舞台芸術学院で演技基礎の手ほどきを受けていた、演出家の程島武夫先生が旗揚げした劇団自由劇場に誘われて、入りました。程島先生は、新しい演劇をやりたかった方で、イギリスで「怒れる若者たち」(※1)といわれた劇作家アーノルド・ウェスカーやジョン・アーデンの戯曲などを持ってきて、上演していました。

(※1)1950年代から60年代初期にかけて活動した一群のイギリス作家たちをさす。J.オズボーンの戯曲「怒りをこめてふり返れ」に由来し、オズボーンのほか、小説家J・ウェイン、K.エーミス、J.ブレーン、A.シリトー、批評家の C.ウィルソン、劇作家のウェスカーらを含む。彼らの作品には、福祉制度の充実によって高等教育を受けるにいたった労働者階級の立場から、既成秩序を批判したものが多い。

29、30歳のころは、いくつかの劇団を渡り歩いて、そこで、太田省吾(※2)という人物に出会いました。彼は、大学演劇をやっていたのだけど、程島さんの劇に感じて、学習院大学を中退してやってきた。でも、自由劇場はもう解散していたので、程島先生の助手として舞台芸術学院の助教師をしたり、東宝の松本幸四郎さんの劇団の演出をする程島さんの助手をしていましたね。

(※2)1968年に転形劇団を結成。70年から主宰した。俳優がセリフを語らず、極度にゆっくりした動きで演じる「沈黙劇」のスタイルを確立。「水の駅」「地の駅」「風の駅」の沈黙劇3部作などの代表作を持つ。「水の駅」は世界20カ国以上で上演。88年、転形劇場解散後は、近畿大学成就、京都造形芸術大教授・映像舞台芸術学科長などを歴任した。著書に、演劇論「飛翔と懸垂」などがある。

紆余曲折があって、劇団転形劇場の主宰になった太田さんが戯曲を書くようになるのですが、太田さんはさらに新しい作品を書いて、独自の境地を開いた人。2時間、セリフをひと言もしゃべらない“沈黙劇”を創ったり…発明したと言ったらいいのかな。もちろん、セリフのある芝居も書きましたよ。

僕は、太田省吾作・演出の全舞台に出ています。中でも、「砂の駅」は、太田さんが亡くなって数年後の2011年に、韓国を代表する女性演出家のキム・アラが上演したいということで、僕と大杉漣と鈴木理江子が韓国へ行って出演した思い出深い作品ですね。

彼は、理論家でもあって、演劇論をたくさん執筆しました。こんなに演劇論を書いた演出家はいないと思いますよ。ただ、太田さんの書く演劇論は「(難解で)わからない」という評判は、よく聞きました。僕らは何年も一緒にやっているからわかりますけどね。

太田さんとは、16年間、転形劇場で一緒にたくさんの舞台をやり、海外の多くの演劇祭にも参加しました。転形劇場を解散した後、京都の近畿大学や京都造形芸術大学で教鞭を執っていた頃も、年に1回くらい劇を作って、僕らも出演しました。太田さんは、役者としての僕の基盤を作ってくれた人。彼がいなかったら、今こうして品川徹という役者は、存在していなかっただろうなぁ、たぶんね。

刺激を受けたもう一人…大林宣彦監督「ひと言で言うと“映像の魔術師”」

僕にとって、刺激を受けたもう一人は、映画監督の大林宣彦さん。2014年の映画「野のなななのか」という作品に監督から呼ばれて、常盤貴子さんと僕がダブル主演しました。その前に、映画「この空の花」という作品に、ちょっとした役で出演させていただきましたが、「品川は何かできるんじゃないの?」と感じたらしいのね(笑)。

それと、大林恭子さんというプロデューサーで監督の奥さんは、俳優を見る目が確かだと言われていましてね。後で聞いた話ですが、恭子さんが、「主人公の男の役を品川にやらせたらいいんじゃないか」と言ったらしいんです。それで、監督もいいかもしれないということで、僕になったのかもしれないですね。

大林さんは、ひと言で言うと「映像の魔術師」。大林さんの映画を見て、私の映画を見る目が変わりました。尊敬しております。

映画「野のなななのか」のテーマは、「人の生き死には、だれか別の人の生き死ににつながっている」というもの。今出演しているドラマ『その女、ジルバ』も、熟女ホステスやマスターたちが、店の初代ママ・ジルバ(池脇千鶴=2役)の遺志を受け継いで、一所懸命たくましく生きているでしょう。

だから、自分をあきらめないでいただきたいなと思いますね。夢は夢で終わるかも知れないけど、物事はあきらめたらお終いですから。常に夢を持って人生を送ってほしいですね。

品川徹、指揮者になる

「もし、俳優になっていなかったら?違った自分になってみてください」その質問に、品川から返ってきたた答えは「指揮者」。その理由とは?

僕ら子供のころは、テレビもないし、せいぜいお金のある家にラジオがあったくらい。上京して演劇の学校に入っても、テレビなんか買えなかった。

テレビを自分で買ったのは、30歳を過ぎてから。音楽なんて何も勉強したことないし、音符も読めない僕が、テレビで指揮者を見て、すっごいかっこいいなと思ったんだよね。ただ、それだけ(笑)。

でも、クラシックはすごく好きで、LP盤のレコードは何枚も持ってた。かつては、4本足のついたステレオがあって、それでよくクラシックを聴いてたな。レコードは捨ててしまったけど、今もクラシックは好きなので、辻井伸行さんや庄司紗矢香さんの生演奏を一度聴きに行きたいと思っています。

撮影:河井彩美