6月24日(水)放送の『林修のニッポンドリル みやぞん&フワちゃんがナゾ調査SP』では、副担任の座をかけて、ノブとフワちゃんが「多くの人が答えられなかった日本語のナゾ」に挑んだ。
熟語に送り仮名を加えたらどう読むのかを問う「足し漢(かん)」で、まず出題されたのは、皮肉めいた言葉で相手を怒らせる様子を表す「揶揄(やゆ)」に「う」を足した、「揶揄う」。子供から大人まで日常的に使っている表現だが…?
正解は、「からかう」。「揶揄」=「からかう」という意味とセットで覚えておきたい。
では「出会い」を表す「出会」に「す」を足した「出会す」は、何と読むのだろうか?
正解は「でくわす」。「出会う」とほぼ同じ意味だが、偶然性の強い出会いの時には、「出会う」よりも「出会す」を使った方がベターだという。
人をさげすみあざ笑う様子を表す「冷笑」に「う」を足した「冷笑う」の読み方は、わかるだろうか?ひらがなで書くと全部で6文字なので、「あざわらう」ではない。
正解は、「せせらわらう」だ。「あざわらう」は「嘲笑う」と書くので、合わせて使えるようにしたい。
悪事を始める時は「手を染める」。やめる時は「足を洗う」…手と足はなぜ違う?
悪事を始めるときには「“手”を染める」というのに、やめるときは“手”ではなく「“足”を洗う」のは、なぜなのだろうか?
この2つの表現は、言葉の成り立ちがまったく異なる。まず「手を染める」には、もともと「初める」という漢字があてられていて、単に「物事をはじめる」ことを表す言葉だった。
その後、「染まった手がなかなかキレイにならない状態」と「一度始めたことがなかなかやめられない状態」が掛け合わされて、「染める」の文字が当てられるようになり、主に悪事の時に使われるようになったのだ。
一方「足を洗う」は、お坊さんが裸足で外を歩く修行の後、建物に入る前の「足洗い」が語源だと言われている。
この作業は、単に足をキレイにするだけではなく、「俗世間の煩悩を洗い清める」という意味もあり、それが転じて「これまでの生活・関係を断ち切ること」を「足を洗う」と表現するようになったといわれている。
一昨日の読み方が2種類存在するのはなぜ?
さて、「一昨日」の読み方に「おととい」と「おとつい」の2種類が存在する理由はなぜなのか?
中国地方で育ったノブとモーリー・ロバートソンをはじめ、近畿&中国地方の人の約87%が「おとつい」と読んでいるというデータもあるが、もともと平安時代以前は「おとつい」だったものが、平安以降に音が変わって「おととい」になったと考えられている。
「おとつい」の意味は「遠方(おと)の日(い)」。助詞の「の」を「つ」と発音することに違和感を覚えてしまうが、「目の毛」=「まつげ」のように、「の」を「つ」と表すこともあるのだそうだ。
「分かる」と「解る」を場面によって使い分けられる?
「分かる」と「解る」の使い分けについても、出題された。「わかる」の漢字の使い分けは曖昧になってきているそうなのだが、よりふさわしい使い方を覚えておきたい。
まず、「分かる」はすべての「わかる」に使えるオールマイティな漢字だ。「どの漢字を使うのがふさわしいのか?」と悩んだら、「分かる」と書いておけば間違うことはない。
一方、「解る」は「理解」や「解釈」が介入する場合にしか使えない。つまり、「絵画のよさがわかる」という文脈では、「わかる=理解/解釈できる」という意味なので「解る」がふさわしい。しかし、「真犯人がわかった」という時は「理解」でも「解釈」でもないので、「解る」ではなく「分かる」を使ったほうがよいのだ。