さまざまな世界で活躍しているダンディなおじさまに、自身の半生を語ってもらう「オヤジンセイ~ちょっと真面目に語らせてもらうぜ~」。

年を重ね、酸いも甘いもかみ分けたオトナだからこそ出せる味がある…そんな人生の機微に触れるひと時をお届けする。

今回は、地上波でのオンエアも開始したFODオリジナルドラマ『時をかけるバンド』にも出演している、64歳を迎えた俳優・渡辺裕之が登場。

年齢を経て精悍(せいかん)な佇まいに渋みが増し、独特の存在感で映像に舞台にと活躍。ジャズドラマーとしての一面も持つ、多才な渡辺裕之の人生を前編・後編に分けてお送りする。

ジャズドラマーと映画スターに憧れた子ども時代

親父はカメラマンで、茨城県の水戸市でカメラ屋とスタジオを営んでいました。おふくろは満州で育って終戦後に日本に帰ってきたこともあり、どこか大陸的な空気を持っていて、日本のドラマよりも洋画を好むところがありました。爺さんも映画好きだったので時代劇によく連れて行ってもらったし、「ザ・ドリフターズ」や「若大将」も好きで観に行っていました。

過ごした商店街は地域の子どもをすごく大切にして、可愛がってくれるけれど叱ってもくれる、そういうコミュニティがありました。家の前を路面電車(水浜線 1966年に廃線)が通っていたのですが、僕はカウボーイハットを被ってオモチャの2丁拳銃を腰から下げて、自転車で走って行き電車の前で「ホールドアップ!」と電車を止めるんです。そうすると車掌さんも止まってくれて、僕が「よし行け!」と言うとまた走り出してくれる。そんなのんびりした時代でしたね(笑)。

ウエスタン映画を観たらスティーブ・マックイーンみたいなガンマンに、スパイ映画を観たら諜報部員になり切るし、電車に乗ったら「もし自分が車掌さんだったら…」と考える。そういったいろいろな“なりたい職業”を実現できるのは俳優という仕事なんだと知り、小学校高学年くらいからは「映画スターになりたい」と思うようになりました。

フランキー堺さんが慶應大学の学生でジャズ・ドラマーから喜劇俳優になったり、クレイジーキャッツがいたり、ドラマーを主人公にした石原裕次郎さんの映画「嵐を呼ぶ男」(1957年公開)があったりと、ドラマーがカッコよく描かれている映画がたくさんあった。小学4年生からジャズドラムを演奏していたこともあり、自分もそういうドラマーで俳優になりたいとずっと思っていました。

中学3年生くらいから大人に混じってドラマーとしてアルバイトをし、高校に進学してもアマチュアで活動したり、夏休みになるとバンドを組んでビアガーデンで演奏したり、学校終わりでキャバレーやクラブでも演奏をしていました。掃除のバイトの時給が200円くらいだった頃に、月に10万円くらい稼いでいましたね。

宣伝写真を自撮りして営業、掴んだ主演デビュー

自分がなりたいのは俳優でミュージシャン、というのは常に心にありましたが、“長男で家の跡継ぎ”という意識があったので、商業を勉強するために大学に進学しました。

その後、大学3年生から卒業後を含めて4年間、ルフトハンザドイツ航空でアルバイトをして、同時に夜はバンドの仕事をするという生活をしていました。卒業して2年後に、親父がガンで手術をしたこともあって、そろそろ本格的にカメラの勉強をしないといけないと思い、東京のカメラ屋さんに丁稚奉公のようなかたちで1年間修業に行くことに。

そうしているうちに親父が元気になったので、自分の進みたい道に行く決心をして、ルフトハンザの知り合いの紹介で、外国人モデルのマネージャーとして2年間働くことに。そして、実家のスタジオで宣伝用の写真を自撮りして、マネージャーとして営業に行っていた広告制作会社などに売り込みを始めました。

それで最初にもらった仕事が「コカ・コーラ」のCM(1980年)出演。その時に親しくなった撮影カメラマンの方が、映画を撮る時に声をかけてくれたのが、俳優としてのデビュー作となった映画「オン・ザ・ロード」(※)です。今見るともちろん芝居の基礎もできていないし、茨城の訛りもあるし、恥ずかしいですね。

(※)1982年公開、主人公の白バイ警官役を演じた。

通常の俳優デビューというのは、芸能事務所に入ったり劇団に入ったりするものですが、そういうルートへの入り方が分からなかった。「いきなりスカウトされて映画スターだろ!」という考えが自分の中にありました(笑)。

映画に出演することは親父には言っていなくて、新聞の広告を見て初めて知って「跡を継ぐんじゃないのか!」と驚いたみたいです。でも実は喜んでくれていて、周囲には自慢していたようですが。

37歳の時に親父が死んで、自分にできた息子が育って初めて「継げなくて申し訳なかったな」と思うようになりましたが、生きている時には思わないものなんですよね。「ああ、親父はあの時こういう気持ちだったんだろうな」というのが分かるようになりました。

社会現象になった昼ドラ『愛の嵐』でブレイク

27歳でデビューしてから立て続けに、ピーター・フォンダと共演した「だいじょうぶマイ・フレンド」(1983年)、ドイツとの合作「ウインディー」(1984年)と、大作映画に出演しましたが、僕自身への評価はそこまで振るわなかった。

今思えば、ちゃんと劇団に入って稽古をしていれば結果は違っただろうな、という思いはありますが、その時には分かりませんよね。知らないしそういった伝手(つて)もなかったし。だから自分の中では順風満帆な経歴ではないんです。

そんな中でターニングポイントになったのは、昼ドラの『愛の嵐』『華の嵐』『夏の嵐』の“嵐3部作”(※)です。毎日、スタジオで撮影するという経験をしたのも大きかったです。だんだんと自分の名前と存在が知られていって、街を歩いていても、声をかけられたり振り向かれたり、どこかに行くとワーッと人が集まってきたりと反響が直に分かるようになった。

(※)1986年~1989年に放映された東海テレビ制作の昼ドラマシリーズ。身分違いの恋をドラマティックに描き、その人気は社会現象にもなった。

それで有頂天になっていた時もありましたが、先輩の俳優さんやスタッフの方が、さまざまなアドバイスや注意をしてくれました。(“嵐3部作”で)共演した長塚京三さんをはじめ、美術の池田(幸雄)さん、あとは照明さんや当時のADの方といった方々からいろいろ教えていただきました。それまでは自分の勘だけでやってきていたので、ありがたかったです。

「感情で反応しろ」長塚京三からの教え

一度、長塚さんのお宅に、(『愛の嵐』で)共演した田中美佐子さんと佐藤仁哉さんと僕とで招いていただいて、お芝居の話を聞かせてもらったことがあります。長塚さんは早稲田大学の演劇科からフランスのパリ大学へ留学をして、翻訳のお仕事をするほどに経験が豊かな方。

「俺たちが主役のお前を目立たせるために芝居をするから、お前は大きな芝居はしなくていい、その代わりに微妙な表現ができるように勉強をしたほうがいい」「まばたきの仕方、目の動き、ちょっとした顔の筋肉の動きひとつ、その時の感情に反応するトレーニングをしろ」などと、具体的なアドバイスをくださった。

でも、当時の僕には難しくて、「感情、内側がメインなんだな」というのはかろうじて分かりますが、それを表現するためにはどうしたらいいのか、改めて本を読んでは勉強しての繰り返しでした。

俳優という仕事は、もっと不器用な人の方がいい場合もたくさんあると思います。僕はカメラマンの倅(せがれ)ということもあって、カメラのレンズの知識があるがゆえに、「今、カメラのレンズを何ミリに交換したから画角がこう、人の動きがこうなる。ということは、こっちから首を回したほうが映像が繋がる」とか、変なコツみたいなものが身についている。

先読みして動くから撮影はスムーズに進むんですが、それって俳優の仕事ではないんですよね。そんなことを考えずに、純粋に役の感情だけを追っていく人の方がいいのではないか、そう思うこともあるんです。

渡辺裕之のジンセイ。後編では俳優としてめざすこと、夫婦円満の秘訣、人助けをしてしまう性分について語ってもらう。

【思い出の品】ハーレーダビッドソン

ハーレーダビッドソンに乗るのは、映画「イージー・ライダー」に憧れていた子ども時代からの長年の夢でした。栄養ドリンク「リポビタンD」のCM出演が決まった時に購入した「ヘリテイジ」というバイクが最初の1台になります。

毎年CMの契約が更新されるたびに少しずつカスタムしていきました。これは3代目になり、今は大切にガレージにしまってあります。

撮影:河井彩美