テレビマンの素顔に迫る「テレビマンって実は」。

ニュース番組で政治の話題を扱うとき、国会などの現場から中継で登場する記者、といえばイメージしやすいかもしれない。今回はフジテレビ報道局政治部の千田淳一記者(46)が、テレビマンのリアルを語る。

実は千田記者は、フジテレビには中途採用で入社している。元々福島テレビのアナウンサーだったのだ。岩手出身で東京の大学を卒業後、Jターンで“地元”に戻った形だった。きりりとした眉、ぱっちり二重…ネットでは“福島テレビの遠藤章造”という情報も。

“福島テレビの遠藤章造!?”…しかし4年目でアナウンサーは挫折

千田:実は、人前に出るのが苦手で。昔から国語の教科書を読むときもボソボソとしてしまい、しゃべるとどうしても言葉に詰まってしまい…。でも、どうしてもスポーツ実況がやりたくて。同い年の松井秀喜選手が大好きで彼のプレーを実況したかった。それがアナウンサーの志望動機です。

しかし、いくら先輩から教えてもらってもリポートからフリートークまで、苦手を克服することができず挫折。入社4年目でアナウンサーから報道の記者に。県警担当、県政担当…とキャリアを重ねていく。

すると入社9年目には、記者とキャスターを兼務し再びテレビの前で話す立場に。

千田:取材相手から聞いた話を組み立てて原稿にすると、わかりやすくなるんだということを発見し、これをしゃべっていけばいいんだ!と。ちょっと自慢してしまいますが(笑)私がキャスターになってから、夕方のニュース番組はずっと視聴率が2位だったのが1位になったんですよ。

生放送でも特集のコーナーがありますよね、その間の時間を使ってまた取材して原稿を書いて…。情報を詳しく早く伝える「先頭にいるのは自分」という思いでやっていました。その後は番組のデスクも兼ねていましたから、結構大変でした。

記者、キャスター、デスクとして、まさに「その場で書いて、しゃべる」という生活に。フルスロットルで働いていた2011年3月11日。地震が起きたその時、千田記者は、ちょうど県知事選関連の取材から会社に戻るところだった。

3.11地震発生時、大きな揺れと共に土砂崩れを緊迫リポート

福島市・伏拝地区の国道4号線。カメラマンと一緒にいた千田記者は揺れている瞬間から撮影をスタート。4車線を埋めつくす土砂崩れをリポートした。「すごい大規模な…巻き込まれています。逃げろ!危ない、危ない!逃げて!救急車呼んで!救急車!すごい音を立てて斜面が崩壊しています」見るものをすべて言葉にした。

千田:偶然この場所にいたことは本当に貴重だし、遭遇した機会を逃さないぞ、と必死だったのを覚えています。カメラマンに「お前、近づきすぎ!」と怒られたくらいです。現場は幸いけが人が出なかったのですが、「救急車、救急車」と叫びすぎてしまいました。

千田記者が地震発生直後の様子をリポート(福島市・国道4号線)

その後、会社に戻った千田記者は、キャスターとしてスタジオから最新情報を伝え続ける。津波が起きた沿岸部の現場に入れたのは、1週間後だったという。

東京と被災地での報道の違いに憤りも

千田:福島県新地町の沿岸部に行き、津波被害のリポートを撮影することに。普段はできるはずのリポートが、全然できなくて…20テイクくらい撮ってしまいました。ショックが大きすぎて、キャスターなんですか?というくらいのしゃべりでした。「この被災地で何を伝えれば良いのか」「この場所での自分の役割って何だろうか」と悩んでいたと思います。

東京と地元では報じている内容も全然違うんです。被災地では災害情報の本記のほか「ここで水が配られます」という細やかな情報や「震災関連で灯油をもらう列に並んだ人が亡くなった」というニュースも連日報じました。心を痛めながらも強い思いで伝えていましたね。しかし東京では「帰宅困難者が…」という情報で埋め尽くされている。福島の情報を全国ニュースで発信する放送尺(時間)をもっとくれよ!と憤りを感じたこともありました。すべてのスタッフの熱量は本当にすごくて「死んでも伝えるぞ」という使命感だけでやっていました。

震災では何を伝えるのか、何を伝えれば正しかったのか、今考えても本当に難しかったです。ただ、当たり前の日常のありがたさ、尊さ、毎日普通に生活できることに感謝をしないといけないと思いました。

被災地の最前線で取材を続けた千田記者は、3月14日(日)13時50分~NHKにて放送される、NHK民放 6局防災プロジェクト 「キオク、ともに未来へ。」の『あしたの命を守りたい ~NHK民放 取材者たちの震災10年~』に出演する。NHKと民放5社の震災取材担当者がスタジオに集まり、震災や復興過程での 経験を持ち寄って、未来の命を守るため、私たちは何ができるのかを考える番組だ。

報道記者として「東京で勝負したい」

福島テレビは、伝統的に報道が強い局で、スクープ記者が多かったという。千田記者は、先輩たちに取材の基本を学び自身が成長できたと振り返る。しかし、そんな環境にいながらも千田記者は、東京行きを決断する。2015年、フジテレビの報道センターでディレクターとして採用され、その後政治部の記者になった。

千田:報道記者として「成し遂げていないものがまだある、もっといろんなことにチャレンジしたい」という思いがありました。福島では、事件、事故をはじめ原発事故などをめぐる政府の動きも取材してきました。積み上げた経験を生かして、これからはより大きな舞台で勝負したい、と決意は固かったです。

フジテレビ報道局では菅官房長官(当時)担当の番記者を3年務めた。今は首相官邸担当記者だ。東京に出てきて良かったこととは―。

昨年9月 総裁選に臨む菅官房長官(当時)を取材 左が千田記者

菅首相「誕生の瞬間を取材」

千田:日本の首相が誕生する瞬間と、自分が取材してきた政治家が、コロナ対策含め“どう日本をつくりあげていくのか”というのを、間近で見られるというのはすごく幸せだと思っています。

今のところ、東京でやりたいことはやらせていただいて希望を叶えていただいています!

被災地の話をしている時とは違い、リラックスした様子で語り始めたのは、まさにこの企画のタイトル「テレビマンって実は」の話になった時。

テレビ本体はまだまだ“可能性を秘めた箱”

千田:「テレビマン」って実は…、まだまだやれることがたくさんありますよね。フジテレビに来て、いろいろな方と話していると、頭が柔らかいですし楽しいことを考えている人が本当にいっぱいいるんだということがわかりました。

テレビ番組を作るのはもちろん大切ですが、こんな大きな機械が一家に一台以上あること自体、秘められた可能性がもっとあるのではないかな、と。私は記者としてのキャリアが長いので、これからドラマやバラエティを作る、というのはちょっと難しいけれど、テレビを使った新しいビジネスや、医療などの分野などでも人々の役に立つことが考えられそうな気がしています。パソコンにもカメラがついているのだから、テレビにだって付けられますよね

千田記者は、なんとも楽しそうに語っていた。さらにプチ情報として教えてくれたのが、化粧品の代理店をやっていた母親の影響もあり、身だしなみにはいつも注意していること。愛用のポーチには、化粧水やハンドクリーム、リップクリームなどがずらり。「保湿が大事なんですよ(笑)、私はきれい好きなんです。でもね。被災地や現場に行ったらそんなことはすっかり忘れて、同じ下着で何日も過ごせますからね!」

おしゃれなポーチから出てきたグッズたち

福島テレビのアナウンサーになったとき、そのプレーを実況したかった大好きな松井秀喜さんには会えたのだろうか?

千田:まだお会いできていないんです!でも私をテレビ業界に引き込んでくれた松井さんに感謝です。報道記者になるとは思っていませんでしたが、きっかけは何でもいいんですよね。そこで記者という仕事に夢中になって自信をつけることができましたし、世界が広がりました。今、こういう形でやれている自分はもっと頑張らなければ!と思います。