30代後半に差し掛かった関ジャニ∞が、あらゆるモノやコトを追求し、楽しみ、“イカしたオトナ”を目指す本気バラエティ『関ジャニ∞クロニクルF』。

10月5日(月)は、「人生のターニングポイント、26歳でバラエティする。」が放送された。

関ジャニ∞の“26歳”にも転機があった!

“人は26歳で人生のターニングポイントを迎える”という説を、関ジャニ∞メンバーそれぞれが26歳の時、実際にどんなことが起こっていたのかを振り返り、検証した。

メンバーが「聞いたことないな」と口を揃えたこの説だが、以前から心理学、経済学、占星術などでは囁かれていたもの。お笑いコンビ「博多華丸大吉」の博多大吉も自書でその説を検証し、声高に提唱する1人だ。

後に30年以上続き、とんねるずの代表番組となった『みなさんのおかげです。』がスタートした年齢が、彼らが26歳の時だったほか、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、ナインティナインもそれぞれ26歳で代表番組の放送が開始。明石家さんまや志村けん、そしてビートたけしも、ミュージシャン、野球界、経済界などで功績を残す有名人も26歳で転機を迎えていた。

「1回、社会を知るやんか。『俺ってこんなもんなんだ』って、大人の世界を少し知って。夢のでかさをおしはかられている時」(村上信五)、「30歳前に『なんかやったろう』って思うんかな」(横山裕)と、興味がわいてきた様子のメンバー。そこで個々の26歳当時を振り返ることに。

<横山裕の26歳(2007年)>

・倉本聰脚本ドラマ『拝啓、父上様』出演
・初ソロコンサート「横山YOUがヤっちゃいますコンサート」開催

「ソロコンは、自分にとってでかかった」という横山。この年を皮切りに、ソロコンサートを3度行っており、3度目の2010年には大阪城ホールで開催。「それを亡くなる前のオカンに見てもらったのは、一番でかい。ラストの親孝行やったなと思う」としみじみ語る。

そして、「(ライブを見に来た母が)『あんたすごいな』って(言ってくれて)。その何週間後かに亡くなった。青森のライブ2時間前くらいに聞いて。すっげー悩んだよ。ライブ中止してオカンの所に行ってあげるべきか、ステージ立つかって。でもステージに立たんかったら、オカンのためじゃないわと思って立ったけど」と当時の思いを振り返った。

<村上信五の26歳(2008年)>

・セルフプロデュース舞台「未定」壱 公演
・ドラマ『ありがとう、オカン』で主演

「ここから長かったな、一人舞台」と丸山隆平に言われた村上は、「修業」と一言。そもそも『「未定」壱』は、村上と渋谷すばるの二人舞台。「またやろうやって話になってたけど、来年どうするとなった時に(渋谷が)『ちょっとちゃうな。今は(舞台ではなく)音楽やねん』って(言い始めた)。それで『どうしよう』って会社に言ったら、『じゃあ1人でやれば?』って」と、翌年から10年以上続いた一人舞台のスタートを語った。

「舞台を作る時、対応するのは全部自分やん。そういう意味で対応力は学ばせてもらった」という。

<丸山隆平の26歳(2009年)>

・初の連続ドラマ『歌のおにいさん』出演
・バラエティ番組『愛の修羅バラ!』で初MCに挑戦
・京都から大阪へ。人生初、一人暮らしを開始

横山は、「(丸山の)一人暮らしが一番疑問やった。『なぜ東京へこうへんねん?』って。みんな、東京で頑張ろうやってのってきたくらいじゃない?」と、当時疑問に思っていたそう。

そんな疑問に対し、「みんなが関西のレギュラー番組(の収録)が終わると『東京帰る』って言ってるのを、ずっと心の中で『いやいや、関ジャニやし。東京に帰るってなんなの?なんでみんな、関ジャニ∞なのに東京行ったんや』って思ってたの」と、語る丸山。続けて、「俺だけでも(関西を拠点にして)、関ジャニ∞の証明になればいいって、かっこつけて思ってた」と少し照れくさそうに話した。

さらに、「『愛の修羅バラ!』の時に、ディレクターさんとプロデューサーさんが『編集するところを見るか?』って(声をかけてくれた)。どこが切られて(カットされて)、どこが(放送に)使われるか教えてあげるからって、何回か勉強会をやってくれてた」と、バラエティの基礎を叩きこまれたことを話す。初めて聞く話にメンバーは感心しきりだった。

<安田章大の26歳(2010年)>

・本格的に手話の勉強を始める。翌年、手話検定3級取得
・趣味でやっていたダイビングのスキルアップに挑戦。後にレスキューダイバーの資格取得
・思いを伝えたい人へのメッセージという雑誌のインタビューで、「サルへ ここまで進化してくれてありがとう」と、常に人への感謝を忘れない安田らしい回答をする

雑誌に掲載されたメッセージに大爆笑しながらも、「ヤスの、ヤスたるヤスがここにいるな」と丸山。当の安田は、「(説を)ドカーンとひっくり返しますけど、自分で思い返してみてもないんですよ。26歳で自分がターニングポイントだと感じたこと。よくよく自分で考えてみたら、毎日がターニングポイントやなって(答えに)たどりついた」という。

すると、「そんな感じがした。ヤスにとっては毎日刺激を受けてるから、ターニングポイントって考えてないのよ」と横山も納得。手話も、ダイビングも、いつか聾唖(ろうあ※)の方のためにダインビングショップを開きたいが故の習得、と聞いた横山の「ヤスが40歳になったら“ここ(26歳)がターニングポイントだった”と思うかもしれん」という言葉に、安田もうなずいていた。

※耳が聞こえない、言葉が話せないこと

<大倉忠義の26歳(2011年)>

・初のゴールデン冠番組『関ジャニの仕分け∞』放送開始

『関ジャニの仕分け∞』では、太鼓の達人で大倉の見事な腕前が話題に。2011年は、関ジャニ∞の飛躍の年でもあった。そこに至るまでの、メンバーそれぞれが26歳を迎えた2007年から2011年の5年間のグループの軌跡も振り返ると、47都道府県ツアーやグループ初の単独カウントダウンライブ開催、初バンドスタイルの楽曲リリースなどがあり、2011年には『24時間テレビ』(日本テレビ)のメインパーソナリティを務めていたことが、改めて明かされた。

「この5年はすごいね」と村上もしみじみ。「曲で言ったら、自分たち的にやりたいことがやれ始めてる。『ズッコケ男道』の前は全部タイトルに“大阪”がついていて。俺たちは全国に名を轟かせたいって思いが強かったから、『いつ大阪が離れるんですか』ってレコード会社と話して、『ズッコケ男道』ができたんやと思う」と当時の思いを話す横山。

また、「47都道府県ツアーの楽屋で、タッキー&翼が『24時間テレビ』のパーソナリティで、そのバックにKAT-TUNが出てたのよ。『俺らもテレビ出たいなー』って言ってたのを覚えてる」という横山の発言を発端に、「俺らは(テレビじゃなくて)ライブしてるなって」(安田)、「毎年(パーソナリティが)俺らじゃなくて、『なんでやねん!なんでやねん!』言うて」(村上)、「ようその間、ファンの人は(ライブに)来てくれたね」(丸山)、「でもあのライブのおかげで俺らものすごい強くなったよな」(横山)と、4人の思い出話に熱がこもる。

すると、横山は「俺、ちょっとの酒あったら泣いてるぞ」とこぼし、笑いながらも納得のメンバーだった。

次回、10月12日(月)『関ジャニ∞クロニクルF』は、26歳以降のターニングポイントに焦点をあて、関ジャニ∞のこれからを占う。