石橋貴明が文化人、ミュージシャン、タレント、アスリートなどジャンルを問わず“話してみたい”ゲストを迎え、焚き火の前でじっくり語り合うフジテレビ『石橋、薪を焚べる』。
5月19日(火)の放送は、ゲストにナインティナインの岡村隆史が登場し、芸人を目指したきっかけや、知られざる石橋との交流、これまでの苦悩や、これからについて焚き火と石橋の前で語った。
自分たちは「最後のお笑い河田町世代」
今年で50歳になるという岡村の年齢に「初めて会ったのは22、23くらい?」と石橋は感慨深げ。
最近「お笑い第七世代」など、「世代」で区分されるお笑い界について触れ、岡村は「僕らは河田町世代じゃないですか?」と命名。石橋も「河田町を知ってるか知らないかで、ちょっと分かれるかもね」とうなずいた。
「(新宿区)河田町」というのは、フジテレビがお台場に移転する前に本社があった場所。岡村は「河田町にいた人たちはギラギラしてましたよね」と言い、初めてフジテレビに足を踏み入れた際の思い出を語った。
岡村:『新しい波』(1992年10月~1993年3月放送)の収録で初めてフジテレビの河田町のスタジオに入れてもらいました。
石橋:それは何かこう(胸にこみあげて)くるものがあったの?
岡村:それはありました。大阪に住んでいたので、関西テレビで稽古して固めたものを、フジテレビのスタジオに。で、初めてそこで(ネタを)披露する、という。
石橋:完全に、ナインティナインを紹介するって番組だったの?
岡村:はい、『新しい波』という番組やったんです。技術さんとかもめちゃめちゃ怖かったですし。
石橋:え?何で?
岡村:「おい、それで終わりかよ!」って。技術さんがですよ?「はい、終わりです」っていうと「なんだよ、終わりかよ!」って。
石橋:(笑)。
岡村:「こわー!こんな感じなんや」って思って。むちゃくちゃビビりまくってました。
石橋:フジテレビはね、俺が二十歳くらいの時、売れてない芸人にすげー厳しかったですよ。「絶対にお前の顔忘れないからな!」ってヤツいたもん、俺。
岡村:(笑)。本当に怖かったって思いはありますね。
全国区になったのは『ねるとん』の芸能人大会
そこから「すぐに売れたイメージがある」と石橋が言うと、岡村は全国区になったのは、とんねるずが司会をしていた『ねるとん紅鯨団』( 関西テレビ・フジテレビ系/1987年~1994年放送)の芸能人大会と、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(日本テレビ系/1989年~1996年放送)に、立て続けに出演してからだと告白。
顔が売れて街で声をかけられるようになり、そこで初めて「芸能人になったんだ」と実感したと振り返った。
石橋:じゃ、芸能界入って、「やった!」「これだ、これを求めていたんだ!」と一番うれしかったのは?
岡村:一番うれしかった?いーっぱいあるんですよ。もちろん『ねるとん』芸能人大会に出たのは本当に「やった!出してもらえんねや!」って。あと、あれもうれしかったですね。『スタードッキリ(㊙報告)』(フジテレビ系/1976年~1998年放送)。
岡村は、自分が見ていた番組に出られるということがうれしく、「河田町時代のいろんな番組、自分が見ていた番組に出ているのが夢みたいでした」と話し、石橋も「自分らが売れたとか、番組が高視聴率取ったとか、そういうことじゃないんだね」と共感していた。
『めちゃイケ』はとにかく必死でピリピリしていた
石橋:『めちゃイケ』( 『めちゃ×2イケてるッ!』 フジテレビ系/1996年~2018年放送)で(視聴率)30%超えた、とかは?
岡村:うーん。そのときに貴明さんも「すごい。真面目にお笑い番組やってたらこうやって結果に出るんだな」って言ってくれはって。確かになかなか30%取るのもあれですけど、それよりも『めちゃイケ』に関しては、とにかく必死でやってましたので、そういう「何%取ったぞ」とか、そんなんはあんまりなかったですね。
岡村が「必死でやっていたものですから、人付き合いまで気が回らなかった」と、共演者やスタッフとコミュニケーションを取る余裕がなかったと回顧すると、石橋もゲスト出演した際のエピソードを語った。
石橋:一回、ホールインワン企画ですげぇ夜中まで打って、岡村が入れて、やっと終わったっていうのが、夜中の1時半とか2時くらいで。
岡村:そうでしたね。
石橋:それからちょっと興奮が収まらないで、30~40分くらいだったんだけど、みんなで車座になって。最後の10球くらいで岡村が入れたから「さすが岡村だよね」って話したときに、武田(真治)くんなんかと話したら「岡村さんは普段、収録が終わるとまっすぐ帰っちゃう。全然話さないですよ」ってそのときはじめて聞いてびっくりしたんだよね。
岡村:あぁ、そうですね。
「避けていたわけではないし、みんなずっと仲間で、そうしてやってきたんですけど」と前置きをしたうえで、岡村は「自分が責任を取らなくてはいけない企画というのがそれぞれにあって、その時はみんなピリピリしていたし、その人がやりやすい空気を作るようにしていた」「僕が責任を取らないといけない企画も人より多かったと思うので、その分、ちょっとみんなが気を遣ってくれていた」と当時を振り返り「ちょっと申し訳なく思う」と告白した。
一定の距離感を保ちつつ、長く番組を続けてきたチームワークと番組作りは、とんねるずの番組作りとは「対極」だと石橋。
岡村も50歳を目前にして「コミュニケーションをちゃんと取らないといけないと思っている」と、番組への取り組み方も変わってきたと明かした。
国家公務員を目指し浪人…お笑い転向には、とんねるずの存在が
「逆にあの時はヘビーだった、苦しかった(時代という)のは?」と石橋が聞くと「浪人時代」と意外な返答をする。
国家公務員を目指し、友達と遊ぶこともせず、大学へ行くために勉強詰めだった苦しい浪人時代を経て進学した岡村だったが、そこからお笑いに転向したきっかけの一端には、とんねるずの存在も関係していた。
石橋:国家公務員がなぜ急にお笑いに走るの?
岡村:それは相方(矢部浩之)が誘ってくれたっていう。相方の兄貴が(自分と)同じサッカー部の先輩で。お兄ちゃんもとんねるずさんが好きで。僕もとんねるずファンで。そういうことですごいかわいがってもらってたんですね、家に行ったりして。その時にうちの相方もいましたから、必然的に3人でしゃべるようになり。そのお兄ちゃんが吉本の養成所に入るんです。その舞台を見に行った時に「僕もあそこに立ちたい」と思ったんです。
矢部に誘われたことをきっかけに、お笑いの道に没頭していったという岡村。石橋が「その集中力ってのがすごいんだね」と言うと「そこにハマるとそればっかりなんでしょうね」と自身を分析した。
石橋:40くらいのときに病気になったときは?
岡村:あのときもつらかったですね。
石橋:舞台かなんかでこう(周りが見えなく)なっちゃったんだよね?
岡村:映画をやらせてもらったんですけど、自分が何にもできてないと思ってしまって。次にそういう仕事来たときも、ちゃんとできるようになっておかなければあかんと思って舞台を企画したんですけど、台本を直しているうちに寝られなくなって、そこから一気に気持ちが下がってしまって…。
と、当時の状況を語り、休むことが嫌で「辞めようかとも思っていた」が、休養が決まった際には、石橋から「またやりたくなったらやればいいし、ゆっくり休みなさい」と言われたことも明かした。
そして、休んだことで「この仕事がしたいと改めて思えるようになった。それまでは全部を一生懸命やっていたが、力を抜くことや誰かに頼ることを覚えた」と言い「人間っぽくなったかもわからない」とこの10年の変化を語っていた。
そのほか、クリスマスに2人で食事した思い出なども語り「お互いもう50、59、がんばりましょうね!」と締めくくった。
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