3月14日(日)、フジテレビ『ザ・ノンフィクション わすれない 僕らが歩んだ震災の10年<後編>』が放送され、ナレーションを薬師丸ひろ子が担当した。
東日本大震災による津波で、全校児童の約7割、74人の幼い命が津波で犠牲になった大川小学校で、多くの仲間と最愛の母・妹・祖父を失いながら奇跡的に助かった“てっちゃん”こと只野哲也さんの10年の物語に言葉を添えた薬師丸が感じたものとは?収録後に語ってもらった。
<薬師丸ひろ子 インタビュー>
――今回、ナレーションを担当する上で意識していたことはありますか?
端的に事実を伝えるということであれば、アナウンサーの方とか、適任の方がいらっしゃると思うのですが、それを私に、と言っていただいたからには、何か理由があるのだと。
私としては、必要以上に感情移入や、余計なことは過度にならないようにというのは心がけました。
――放送で印象に残った場面や言葉はありましたか?
いっぱいありすぎて…。正直、収録を終えるまで、自分の感情を抑えて読むことができるのか心配でした。なるべく客観性を持って読むように意識はしていましたが、どの場面も心が動かされました。
哲也さんがカメラの前に立つ覚悟みたいなものを打ち明けたところは…最初はまだ小学生で、素直な自分の気持ちを伝えたり、周りのみんなの思いを代弁したりするために、カメラの前に立っていたわけですけど、途中からそれが様々な覚悟が必要なのだと気づいて。
哲也さんは、取材の対象者として、いろんな場面で世間と向き合ってきて、その結果今、人の目から外れたいと思う気持ちは理解できるし、当然のことだと感じます。
でもナレーションをさせていただいて思ったのは、哲也さんが子どものころから今に至る10年の間に発してきた言葉は、本当に直球で人に伝わるというか。やわらかい表現なのに、真っ直ぐに聞く人の心に響く力を持っていて、それは彼が生まれ持ったものなのかな?と。
今、ご本人はそのことに気づいていないかもしれないけど、彼の言葉から感銘を受けたり、勇気をもらったりしている人たちがたくさんいると思うんです。だから今はわからなくても、あと何年かして、自分が苦しみながらも続けてきたことが無駄じゃなかったと、思ってほしいです。
――哲也さんの「震災当時の子どもたちは、子どもじゃいられなかった」という言葉は胸に刺さりました。
大川小の只野哲也を演じていた、という言葉もありましたけど、自分をなんとか毎日生かしていかなければならない、という中で、生み出した術だったのではと思います。それは精一杯の努力でもあったのだと思います。
大川小学校のシンポジウムでは、そっと蓋をしてきた感情が止められず溢れ出したとき、身体が硬直していく様子が見てわかりました。毎日こういう瞬間と闘っているんだな、と。隣にいたお父さんは哲也さんの変化にすぐ気が付かれていましたけど。
言葉一つとってもそうだし、あの明るさにしてもそうだし、彼自身が自分を支えていくためには、本当の自分を隠すことが必要だったのだろうと思います。
――立場は違いますが、薬師丸さんも哲也さんと同じくカメラの前に立つ一人の人として、感じる部分もありましたか?
私は仕事ですから、発言には気を付けようと心掛けていますが、言葉が足りないことや、時には一言も二言も余計なことが多く失敗して落ち込むこともあります。
――哲也さんと父親の英昭(ひであき)さんは同じ家族を失った遺族でありながら、裁判に対しても意見が違うなど、その思いや表現の仕方はさまざまで、一人ひとりに違う痛みがあることを改めて感じました。
まだ子どもなのに、お父さんの気持ちもわかるから、自分の気持ちはこうなんだ、というのがあっても、声に出して言わない。
お互いを思いやらざるを得ない生活環境、悩んでも悩んでも解決できない感情や現実、ひとつ家庭の中でも思っていることが少しずつ違っていて、その渦中で生活していくのはどんなに大変なことだろう、と思いました。
<放送内容>
東日本大震災から丸10年。
あの日に起きたこと、人々を襲った悲しみと苦しみ、失ったものを、「忘れてはいけない」という思いで追い続けているドキュメンタリーシリーズ「わすれない」。今回、つづるのは、家族や仲間、故郷を失った少年と少女が歩んできた10年。
「もう取材はこれで…」そう口を開いたのは、石巻・大川小の“てっちゃん”、21歳になった只野哲也さん。
全校児童の約7割、74人の幼い命が津波で犠牲になった大川小学校で、多くの仲間と最愛の母・妹・祖父を失いながら奇跡的に助かった彼の10年…向けられるたくさんのカメラとマイク。人々に注目され続け、一挙手一投足までをメディアに取り上げられる日々。そんな哲也さんは今、苦しみの中にいる。明かされたのは、警察官になるという目標を失い、大学も中退したという事実…。
番組は、そんな彼が歩み、背負ってきた10年を巡る“旅”に出る。そして、初めて語ってくれたのは「このままだと生きているようで生きていないような…」という苦悩だった。
「これからは、誰かのためじゃなく自分のために時間を使いたい。だからもう取材はこれで…」打ち明けてた彼の本心。その言葉をあとに、取材班は哲也のもとを離れた。
あれから10年の3月11日をてっちゃんは、どんな気持ちで迎えたのか…。