京都出身の川島明さんも驚く、平等院鳳凰堂の新事実が明らかになりました。

8月17日(水)放送の『林修のニッポンドリル  学者と巡る世界遺産SP 清水寺&平等院』では、平等院鳳凰堂の知られざる新事実を調査しました。

1053年、ときの関白・藤原頼通によって、“極楽浄土”を現世であらわしたいと作られた平等院鳳凰堂。

平等院研究歴約30年の京都芸術大学・杉本宏教授によると、平成に入ってから庭園の発掘調査や復元整備などの修繕が続き、それが終わった今、創建時に最も近い姿になっているそうです。

フジテレビュー!!では、番組で紹介した、いくつかの新事実をピックアップします。

本堂があった場所に建つ「観音堂」が建てられた時代は?

正門から杉本教授がまず向かったのは、源平合戦で源頼政が自刃した「扇の芝」(自刃の跡)。

杉本教授によると、「鳳凰堂」に向かう前に「扇の芝」の隣りにある「観音堂」にお参りするのが、おすすめルートとのこと。

阿弥陀如来坐像をまつる「阿弥陀堂」である「鳳凰堂」は、もともと平等院の本堂ではありません。

観音堂の本尊が「十一面観音像」で、今は「ミュージアム鳳翔館」にて展示されています。

杉本教授曰く、「鳳凰堂」に行く前に元々の本堂があった「観音堂」にお参りすると、平安時代の人々と同じルートで平等院を歩くことができます。

この「観音堂」は、鎌倉時代中期に建てられたと考えられています。

しかし、杉本教授は建物の軒下にある屋根を支える「垂木(たるき)」の形に注目しています。

「垂木」の形は、上が四角で下が丸くなっているのですが、これは古代の建物の特徴。

「鳳凰堂」の「垂木」も同じ形になっていることから、杉本教授は「観音堂」が「鳳凰堂」と同じ平安時代に建てられた可能性を考えています。

平等院では、創建時から残っているのは「鳳凰堂」だけだと言われてきましたが、今後の調査次第では、とんでもない大発見になることが明らかになりました。

「鳳凰堂」の創建時の姿が発掘調査で判明

極楽浄土を願うために、東向きに建てられている「鳳凰堂」。藤原頼通が創建したときには今と形が違っていたことも、発掘調査でわかってきました。

「鳳凰堂」は、極楽浄土を描いた「曼陀羅」と同じように建物を配置。杉本教授曰く、宇治川を三途の川に見立てて、建築する場所も選ばれたといいます。

創建当時から形は変わっていないといわれていますが、杉本教授は、発掘調査で新たな事実を発見。

庭園の発掘調査で明らかになったのは、池が「鳳凰堂」の翼廊の中の方に入り込み、翼廊の両端の柱が池の中に据えられていたということ。

創建当時は、池から「鳳凰堂」が浮かび上がっているような作りだったのです。

建物を未来に残すために、水に柱が浸からないように基壇が作られ、現代の「鳳凰堂」の形に改修されていったと杉本教授は考えているそうです。

平安時代の阿弥陀様と、戦国時代の豊臣秀吉にどんな関係が?

「鳳凰堂」の対岸からは、建物の「丸窓」を通して阿弥陀如来坐像の顔が見えるのですが、顔全体がキレイに見えないことが長年謎だとされていました。

杉本教授は、この謎に豊臣秀吉が関わっていると主張。

平安時代の阿弥陀様と、戦国時代の豊臣秀吉にどんな関係があるのでしょうか。

かつて、「鳳凰堂」の対岸には「小御所」という(鳳凰堂を見るための)観覧施設が建っていたのですが、建物があった場所の地盤が現在よりも、最大150cm低かったことが発掘調査でわかったのです。

「小御所」があった付近の地盤が上がるきっかけになったのは、杉本教授曰く、豊臣秀吉が伏見城を建てるために行った宇治川の護岸整備。

その影響で宇治川の水位が上がってしまう事態に。そこで「平等院」を宇治川から守ろうと、江戸時代になってから「鳳凰堂」と宇治川の間に盛り土を行うことに。

そのため、対岸の地盤が、最大150cmも高くなったといいます。

今でも地面に近い場所から「鳳凰堂」を拝めば、阿弥陀如来坐像のお顔が丸窓に収まった形を見ることが可能です。

杉本教授の話を聞いた京都出身の川島明さんは、「今すぐ宇治に帰りたい」と興味津々の様子でした。