さまざまな世界で活躍するダンディなおじさまに、自身の半生を語ってもらうインタビュー「オヤジンセイ~ちょっと真面目に語らせてもらうぜ~」。
年を重ね、酸いも甘いもかみ分けたオトナだからこそ出せる味がある…そんな人生の機微に触れるひと時をお届けする。
今回は、元プロボクサーで俳優・タレントの赤井英和が登場。ボクサー引退後は、味のある俳優として、また豪快かつストレートなトークを繰り出すタレントして存在感を示しているが、最近では、妻・佳子さんのTwitterによってその不思議な(?)生態が明らかにされ、世代を超え多くの人から愛されるように。
そんな赤井のインタビュー前編では、とにかく破天荒だった学生時代から壮絶なボクサー人生までを振り返ってもらった。
その学校に行って、そこの強いヤツとケンカしました
両親が大阪・西成で味噌・漬け物の販売をしておりまして、家の隣にある納屋にある大人が何人も入るような大きな漬け物樽に、しゃくし菜や白菜やらいろんなもんを漬けて、それを市場で母親が売っていました。そういう中で育った兄・姉・私は、小さい時から家の手伝いをするのが当たり前でした。
公園で野球やっていても、店の片付けの時間が来たら途中で抜けて家に帰る。「時間は励行(れいこう※)に」と叩き込まれたことは今も父親に感謝しています。でも、父親が会社勤めして母親がいつも家にいるという家庭に憧れていたので、大人になってもこの商売だけは絶対にしないと思ってました(笑)。
(※)決められたことを守るよう努力すること
小学校の時は2年生から6年生まで学級委員をやっていましたし、習字や図画工作、そろばん、4年生からは英語も習ってました。友だちの竹内くんの実家のお寺に通って、国・算・理・社のプリントをやったり。
小学校は越境して通っていたのですが、中学は地元の今宮中学校に行くことに。私の小学校からは私1人だけだったので、知り合いはゼロ。友だちを作るには、「これはもうケンカするしかないな」と(笑)。
入学したその日に、今も友だちの三木くんと激しくやりあって、そこから一目置かれるようになりました。そうなると勉強もしなくなり、タバコも吸って、モノを盗んだりとかってことはしていませんけど、よその学校に行ってそこの強いヤツを呼んでケンカしたりしていました。
今宮中学校トイレ爆破事件の犯人?
僕が中1の時、ちょうど50年前ですか、「燃えよドラゴン」という映画がものすごく流行ったんですよ。「空手は最強や」ということで、僕も町道場で空手を習っていたある日、ブルース・リーの真似をして学校のトイレのドアをバーン!って蹴ったら、古い学校やから簡単に壊れてしまったんです。
そんで「俺は強い!」と調子に乗って女子トイレまで全部ぶっ壊したら、学生運動が盛んな頃だったので「今宮中学のトイレが爆破された」っていう噂になってしまって。
西成警察が来て調べたら足跡から「これは赤井や」とバレて、父親が学校に呼び出されて一緒に謝って弁償したこともありました。中学では、勉強なんかしたことなかったけど、学校は大好きで、生涯の友だちとも巡り会うことも出来ました。
ボクシングとの出会いは突然に
そんな調子やから中学の内申書が10段階評価の「1」か「2」で、進学はもう無理やと周りから言われていて。担任の先生からは「もう、どうでもせえ」と言われ、兄からは「浪高(浪速高校)にも受からんのか」と呆れられ、それが悔しくて「だったら、受けたろうか」と浪速高校の受験に挑戦したら、受かってしまったんです。
受験が終わって喫茶店で仲間とタバコ吸ってたら、中学校の時の須藤先輩…2個上で当時の浪速高校ボクシング部のキャプテンをされていた人がいらっしゃって、受験したことを報告したら「おお、そうか!そしたら明日、食堂の前に朝9時に来い」と。逆らうことも出来なかったので次の日、行ってみたらそこがボクシング道場やったと。
要するに雑用係が必要だったんですね。荒っぽい先輩だったので2年生は全員辞め、1年生は誰も入らないから僕一人。まだ、試験に合格したわけじゃないんですよ(笑)。でも、そんなんで春休み中、ビール瓶に入った(選手が飲む)水替えたり、掃除・洗濯したりしてたら、「(入学後の)夏休みに三重国体の予選があるからおまえ出ろ」と。
いきなり言われて「どないしたらいいんですか?」と先輩に尋ねたら、ひと言「どつけ!」と。蹴ったらあかん、噛んだらあかん、投げたらあかん、どつけ、と(笑)。当時はまだ大阪でボクシング部のある学校は少なく、1回勝てばすぐ決勝に行けたんです。
僕は運良く勝ってフェザー級の国体代表になり、やる気がちょっと出ましたが、全国大会になったらさすがにレベルが高く、1回戦で負けました。
強敵を破りボクシングへの情熱が加速
2年になった時、青森国体がありました。今はやっていませんが、ボクシングには団体戦というものがあって、佐賀県と当たることになったんです。当時、ライトウェルター級にはサウスポーの強打者の吉田信二という選手がいて、モスクワ五輪(1980年)の有力候補でした。「無名の俺がこいつに勝ったら俺がモスクワ行きや」と息巻いて。
そこでプロのジムに行き、津田博明トレーナーに師事したのですが、明けても暮れても左ストレートばかり練習させられた。今思えば、プロになった時に左ジャブと並んで私の大きな武器になったわけですが、その時はどうしてなのか分からなかった。サウスポーで体の右側が前に出る吉田選手には、左のパンチが有効だったんですね。
そして試合当日。観客も、相手選手も、コーチも…僕以外、誰一人勝つとは思っていなかった中、左ジャブだけでいわして圧倒的な判定で勝ちました。翌月の「ボクシングマガジン」に、「吉田が無名の赤井に敗れる」という見出しを見つけ、ごっつ嬉しくなって。そこから、が然、ボクシングに対するやる気が湧いていったんです。
大学2年でプロ転向。全日本新人王に
そこから毎朝4時半くらいから走り込み、学校で練習して放課後はジムで練習して、夜は泥のように眠って…を繰り返し、高校3年のインターハイで優勝。そんな時、声をかけてくださったのが、近畿大学の吉川昊允(よしかわ・こういん)先生でした。
モスクワ五輪の補欠に選ばれましたが、日本のボイコットのあおりを受け、大学2年でプロになりました。プロ転向ということで退学届を持って吉川先生のところに行ったら「ご両親はおまえをボクシングするためだけに大学に行かせたわけやないやろ。ちゃんと学校を続けなさい」と。
免除だった授業料もきちんと払って、5年かかりましたが、なんとか無事卒業しました。高校は4年、大学は5年かかりました(笑)。
その後、ずっとお世話になっていた接骨院の院長に津田トレーナーを紹介したことをきっかけに、愛寿ボクシングジム(現グリーンツダボクシングジム)が出来ました。ただ当時、津田会長はタクシーの運転手をしていたので、2日に1回しか教えてもらえない(笑)。決して恵まれた環境ではありませんでした。
また、その頃は世界タイトルに挑戦出来るのは東京のジムしかないと言われていた時代。選手一人会長一人、しかも、長屋を潰して建てたような狭いジムで、ロープに寄っかかったら(きしむ音で)隣で寝ているおばちゃんが起きるから寄っかかるな、なんて言われていたところですから。
アマチュア時代は相手と距離を取りながら戦うアウトボクサーとしてやってましたが、やっぱりボクシングの魅力はKOや、ということで、一発打たれたら二発返す、二発打たれたら三発返す、プロになってバンバン攻めるスタイルに変えました。
1981年、全日本新人王決定戦の西日本代表として出場。相手は帝拳ジムの尾崎富士雄という名選手。津田会長からは、「尾崎は腰を痛めているからロードワークが出来ていない。ということは腹筋が弱い。腹から攻めていけ」とアドバイスを受けました。ボディは相手に上から打たれるリスクはあるが、顔面と違って避けようがない。技術、パンチ力、スピードは尾崎の方が上や、でも、ボクシングに一番必要な“気持ち”は、「赤井が尾崎に勝る」と言われたんです。
今思えば、相手のコンディションなんて会長が知ってるわけないんですよ。すべては僕にボディを攻めさせるために会長がついた嘘だったのではないかと。会長がお亡くなりになった今、確かめることは出来ませんが。
プロボクサー時代を振り返って思うこと
あの頃はもう、ただただ一生懸命でしたね。会長と僕、二人だけのジムで2日に1ぺんの練習でしたけど、「つかみ取ろう」という気持ちだけは強かった。デビューから7戦7勝7KOした後、8戦目から地元の朝日放送さんがテレビ中継してくれるようになったんです。タイトルマッチでもないボクシングの試合を、深夜に流すのは当時としてはかなり異例だったと思います。
プロ14戦目、母校である近畿大学の記念会館で行われた世界タイトル(WBA世界スーパーライト級、対戦相手はアメリカのブルース・カリー)に挑戦した時、何が何でも勝ったろうと1Rから反則覚悟で頭からいったら、向こうの頭の方が硬くて僕の眉が切れちゃいまして。残念ながら負けてしまいました。
言い訳ではありませんが、世界戦という場に立てるよう頑張ってきた自分としては、この時、ある程度、目標が達成されてしまったような気になったというのはあります。
その後、もう一度世界を目指そうとなりますが、正直に言うて、この頃は気持ちの面で揺れることがありました。自分の知らないところで大きなお金が動いていたことに対する不信感、放映権や興行のことも分からなかったし、僕個人に送られたご祝儀にもタッチさせてもらえなかった。黙って行方をくらまして「赤井、失踪」とスポーツ紙の見出しに書かれたこともありました。そして25歳の時に大和田正春戦を迎えたんです…。
ユーモラスかつ、温もりのある語り口で自らの人生を振り返ってくれた赤井。後編では運命の大和田戦、ボクサー引退後の活動、そして今、話題の不思議な(?)生態に迫る。
【思い出の品】試合で着られなかったガウン
これは高砂親方(第4代朝潮太郎)を育てた近畿大学相撲部の祷厚己(いのり・あつみ)先生という、僕の後援会の部長もしていた方が作って下さったものです。母校である近畿大学で行われた世界タイトルマッチで着る予定だったのですが、スポンサーの関係で袖を通すことなく幻に終わりました。その後、引退試合やテレビの企画で着ることが出来たんです。
撮影:河井彩美
取材・文:中村裕一