8月25日(火)、9月1日(火)に放送される、フジテレビ『石橋、薪を焚べる』に、作詞家の松本隆がゲスト出演する。

松本は、日本を代表する作詞家。1975年に「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)のヒットにより注目を浴び、1981年には「ルビーの指環」(寺尾聰)が第23回日本レコード大賞を受賞。他にもアグネス・チャン、近藤真彦、松田聖子、薬師丸ひろ子、KinKi Kidsなどに詞を提供。2017年には、秋の紫綬褒章を受章。そして今年、作詞家活動50周年を迎える。

かつて『石橋貴明のたいむとんねる』で松本の特集を組んだほど、その詞が大好きな石橋。今回、石橋の熱いラブコールに応えてゲスト出演がかなうこととなった。初対面の二人からは、はたしてどのような話が飛び出すのか。

作詞家の道を選んだきっかけは?

東京・南青山に生まれ、西麻布で育った松本。都会で生まれ育った松本は、中学時代にビートルズを聴いたことがきっかけで、音楽の世界観が変わったという。そして大学時代、日本語歌詞をロックに乗せた先駆的なバンド・はっぴいえんどが誕生。メンバーは細野晴臣、大滝詠一、鈴木茂。松本はドラムを担当した。

しかし、はっぴいえんどは活動期間わずか3年ほどで解散。そして、あることがきっかけで作詞家の道へ。はたしてそのきっかけとは…。

作詞家としてのスタートは、順風満帆ではなかった?

作詞家に転向した松本は、「夏色のおもいで」(チューリップ)、「ポケットいっぱいの秘密」(アグネス・チャン)、そして1975年には「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)と続けざまにヒットを飛ばす。「(解散は)はっぴいえんどじゃなかったけど、作詞家のスタートは、はっぴいスタートだったわけですね?」と言う石橋に、松本は、当時はそうでもなかったと答える。

多岐にわたるヒット曲、そして気になるライバルとの関係

以降、次々とミリオンセラーを世に送り出した松本。「スニーカーぶる〜す」(近藤真彦)、「ルビーの指環」(寺尾聰)、「ハイスクールララバイ」(イモ欽トリオ)など、そのあまりのバリエーションに石橋は「松本さんの脳の中はどういう引き出しになっているんですか?」と問いかける。また、松本が「(ずっと)この人と戦うんだろうな」と意識したライバルについても語る。

「赤いスイートピー」誕生秘話

1981年に「白いパラソル」ではじめて、松田聖子の楽曲の作詞を手がけた松本は、その後も詞を書くことに。特に「赤いスイートピー」は、当時アイドルNO.1だった松田の転機となり、代表曲にもなった。その誕生の裏側には、はっぴいえんど時代のある体験が生かされていた。

突如、詞を書くことをやめた理由は?

1970年代、1980年代と駆け抜けてきた松本だが、1990年代に入ると突如、詞を書くことを辞めてしまう。そして7年のブランクの後に書いたのがKinKi Kidsのデビュー曲「硝子の少年」だ。この曲は、松本自身最大のヒット曲となる。「81年のキャリアハイを、97年に(自ら)またキャリアハイにするっていう」と驚く石橋に、「そう」とさらっと答える松本。自ら電源をオフにした理由とは?そして7年間のブランクの時の生活、さらには今までで一番うれしかったことを語る。

ミリオンヒットが条件の日々

ある時期から、作詞の依頼を受ける時点で、常に「条件はミリオン」だった。そのプレッシャーの日々も語る。しかし、本当につらかったことを聞くと意外な答えが?そして、元はっぴいえんどのメンバーでもあり、数々のヒット曲を共に生み出した大滝詠一との思い出や、“天才”だと尊敬する筒美京平との楽曲作りの秘話を語る。