さまざまな世界で活躍しているダンディなおじさまに、自分の人生を語ってもらう「オヤジンセイ~ちょっと真面目に語らせてもらうぜ~」。
年を重ね、酸いも甘いもかみ分けたオトナだからこそ出せる味がある…そんな人生の機微に触れるひと時をお届けする。
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今回は、舞台「エン*ゲキ #05 -4D-imetor」に出演する俳優・阿南健治が登場。ドラマや映画、舞台にとジャンルを問わず幅広く存在感を放ち、名バイプレイヤーとして知られる、大分県出身の59歳。
20歳から日記をつけ、これまでの歩みについては自らが運営している個人ホームページでも詳細に綴られているが、まだまだ語られていない出来事や思い出も?そんな彼の人生を前編・後編に分けて送る。
俳優になりたいとは思っていなかった?「何か面白いことをやりたい」という気持ちだけ
そもそも俳優になりたい、芝居の道に進みたいという気持ちは、小さい頃を振り返ってもそんなに強く持っていなかったんですよ。でも、いちびり(※)というか、関西人特有の目立ちたがり屋気質というか、そういうものは本質的にあったかもしれない。
※近畿地方の方言で「調子に乗ってはしゃぎまわる」こと
生まれて間もなく保育園に預けられたので、わけのわからないまますぐに周りとコミュニケーションを取らないといけなかったんですよね。きっと本能的に、生きていくためにとにかく人目を引いてご機嫌を取ろうとしていたような気もしますが、どうだったんだろうなぁ。今思えば、そこから小学校に入るまでの6年間は私にとって人格形成の面で大きかったと思います。
小・中・高と「何か面白いことをやりたい」という気持ちだけは常にあったし、人前に出ることもありましたけど、女子にモテるとか人気者としてチヤホヤされるというわけでもなく。クラスで勝手に何かやってるだけの寂しい時代でしたね(笑)。
映画監督になろうと上京「不安はなく、東京タワーを見てワクワク」
特に誰かの作品に影響を受けたというわけではないのですが、高校を卒業して映画監督になりたいなと思いました。でも、大学受験に失敗し、なんとか見つけた専門学校に入ることに。同時に雑誌で見つけた俳優養成所にも通っていました。
ほとんど思いつきの人生ですよ(笑)。思いついたら動いているというか。ありがたいことに良い方向に転がってくれたと思いますけど、なぜか不安はなかったです。新幹線の窓から東京タワーを見たら、もうワクワクしましたから。将来のこと、仕事のこともリアルに考えず。
専門学校では自主制作の8ミリ映画で役者として出演したり、あれよあれよという時間の過ごし方で楽しんでましたね。そのときは、小説家・有島武郎の役をやった記憶があります。そのうち、映画監督になるのは難しいだろうなと思うようになり、でも「何かを作りたい」という思いだけはずっとあって、最終的に「俳優になりたい」となっていきました。
19歳で突然の渡米。馬が好きだから牧場で働いたのに…
19歳の時、人生経験を積むつもりで突然アメリカに渡ったのですが、それも思いつき。よくそんなこと思いついたなって、自分で自分を褒めたいですよ。
いろいろあってウィスコンシン州の牧場で働くことになるのですが、その頃につけていた日記をこの間読み返したら、牧場に着いてすぐに作業着に着替えて仕事を命じられて、初っ端から「もうダメだ。つらい」って書いてありました。だって馬が好きで働き先に牧場を選んだのですが、そこには牛しかいなかったんです(笑)。
それでも、なんとか10ヵ月我慢して、次に向かったのがニューヨーク。牧場時代、部屋のテレビでミュージカル「キャッツ」のメイキング番組を見て、いてもたってもいられなくなって。どうせ馬もいないし、かなり働いたからもういいだろうと。
ただ、さすがにニューヨークでの一人暮らしは不安でした。最初の1ヵ月はホテル暮らしで、このまま帰るのかなって思ってたところ、運よく日本食レストランの働き口が見つかって。ギリギリでしたね。
住んでいたアパートはアベニューCというところにあって、家賃は月300ドル、当時の日本円で6万円くらい。危険な地域ではありましたけど、ニューヨークは自分にピッタリの街でした。アートにあふれていて、夢に向かってもがいている自分のような若者がたくさんいました。
ニューヨークで学んだ「すべては自分次第」
私にとって当時のニューヨークは、すごく住みやすくて刺激的でした。自分も何かできるんじゃないかと思わせてくれるというか。お金さえ払えば誰でもダンスのレッスンを受けられるので、ジャズ、モダン、バレエ…レオタードを履いてベーシッククラスを受けました。タップダンスだけやらなかったのが、今でも心残りです。
働いていた日本食レストランにはマドンナとかリチャード・ギアとか、スターや有名人たちがよく食べに来ていました。僕も何度か見かけたことがあります。店員たちが、ギアがクレジットカード払いの際に書いたサインを欲しがっていたのを覚えています(笑)。
確かに自由でしたが、自分で何かやらないと何も残らない、という厳しさはありました。立ち止まっても生きてはいけるけど充実はしない、すべては自分次第、ということをニューヨークでは学びましたね。画材を買ってひたすら絵を描きつつ、オーディションを受けても英語を話せないから当然落ちるし、路上パフォーマンスをやろうと思っても何からやればいいのかわからない。とにかくもがいていた時代でした。
日本の友だちとは手紙でつながっていましたが、当時はメールなんてものはなかったので、ポストに手紙が入っていた時のうれしさといったら、今の若い人には想像もつかないと思います。いろんな人に、もがき苦しんでいた自分の思いをぶつけるかのように手紙を書きまくってました。
大衆演劇、蜷川幸雄、そして三谷幸喜との出会い
そのうち、日本にいる先輩が副座長をしている大衆演劇に誘われて、「すぐに舞台に立てる」という言葉につられて(笑)、帰国することにしたんです。
大衆演劇もドサ回りも全然知らなかったので新鮮でしたよ。良い意味でいい加減というか、簡単に言うと「よろしく」の世界なので、その場を任されたら自分でなんとかしないといけない。殺陣や着付け、所作も含め、かなり鍛えられたと思います。独特の世界でしたけど、ここでの経験はとても貴重なものでした。
その後、蜷川幸雄スタジオに入るのですが、大変失礼ながらそれまで蜷川さんのことを知らなかったんですよ。でも、ここで蜷川さんに、作り込む「演劇」というものをしっかり叩き込まれたおかげで、芝居というものに真正面から向き合いたいと思うようになっていきました。
けれども、せっかく役をいただいたのにバイク事故でふいにしてしまい、2年ほどブランクというか、しばらく低迷していました。その時期は、黒沢清さんや橋田壽賀子さん、林海象さんに手紙を書いて自分を売り込んだことも。今で言うDMですよね(笑)。そしてある日、東京サンシャインボーイズを主宰していた三谷幸喜さんから声をかけられたんです。
ニューヨークから大衆演劇と、思いつき力と行動力で20代にして振り幅の広い人生を送ってきた阿南。それが脚本家・三谷幸喜と彼が主宰する劇団・東京サンシャインボーイズとの出会いによって、役者人生が大きく変化していく。後編ではそんな彼の役者としての心構えについて迫る。
撮影:河井彩美
取材・文:中村裕一